2022/08/31

ダブルリード・カルテットでグラズノフ「四重奏曲」

Richard Boboというコントラバスーン奏者が、グラズノフの「サクソフォン四重奏曲」をダブルリード・カルテット向けにトランスクリプションし、楽譜を販売している。

http://me.subcontrabassoon.com/

確かに名曲であることは疑いようが無いのだが、意外な場所(ダブルリード)での愛され具合に驚いた。他楽器のレパートリーをアレンジして演奏する、という行為は、自楽器に無いタイプの作品に惚れ込んだ結果として発生するものである。サクソフォンでは当たり前のように行われているが、他の楽器がサクソフォンのレパートリーに惚れ込み、アレンジ・演奏まで、ということは稀であり、私が知る限りあまり多くの例は無い(今度整理してみよう)。

実際の楽器での演奏を聴いてみたいところだが…下記より、MIDI音源による演奏とトラッキングスコアを参照可能。

2022/08/28

フェルド「四重奏曲」初演時のプログラム冊子

ダニエル・デファイエサクソフォン四重奏団が、イィンドジフ・フェルド「サクソフォン四重奏曲」をチェコ(当時はまだチェコスロバキアの連邦体制だった)のプラハ市で初演した際の、プログラム冊子のスキャン画像。アンリ=ルネ・ポラン氏の生前の所蔵資料である。

1985年4月23日、陸路(車)で現地入りしたカルテットのメンバーは、プログラム冊子にある通り、新作のフェルド「四重奏曲」ほか、全4曲を披露した。会場は(読み取れる限り)ルドルフィヌムのドヴォルザーク・ホール。

ピエルネ「民謡風ロンドの主題による序奏と変奏」
フェルド「サクソフォン四重奏曲」
グラズノフ「サクソフォン四重奏曲 作品109」
シュミット「サクソフォン四重奏曲 作品102」

(画像はクリックして拡大)


2022/08/27

Le Monde紙のクロード・パスカル追悼記事(2017年)

2017年3月7日付、Le Monde紙上に掲載されたクロード・パスカルの追悼記事である。パスカルの、フランス音楽史の語り部としての側面を強調するかのような内容で、興味深い。


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2月28日、作曲家クロード・パスカルがパリのラリボワジエール病院で死去した。96歳であった。彼の死によって、ローマ賞時代の最後の生き残りがいなくなり、そして何より、ウィットと同様、正しく保たれた時代の記憶が消えてしまったのだ。フランスの偉大な伝統である、緻密な職人気質のクリエイターの一人であった彼は、単なる目撃者としてではなく、自身の音楽人生を、まるで本を開くように語ってくれたものだ。

1921年2月19日、パリで、決して裕福ではないが「音楽とは何かについて非常にハイレベルな考えを持っていた」家庭に生まれたクロード・パスカルは、1931年11月30日にパリ・コンセルヴァトワールに入学し、学年末に一等賞を獲得している。ピアノではあまり成功せず、1935年に二等賞を獲得したのみである。翌年には和声に目を向け、「la clef de voûte du système」のジャン・ギャロンに師事した。1939年(和声)、1940年(ノエル・ギャロンのクラスの対位法とフーガ)、1943年(アンリ・ビュッセルのクラスの作曲法)と、3度にわたって一等賞を獲得したのである。

ヴィラ・メディチの住人:
視覚だけでなく聴覚にも才能のある学生だったクロード・パスカルは、重要な経験を思い起こすことで、それぞれの教師の肖像を描くことができたのだろう。ある日、彼は午後2時にアンリ・ビュッセルの教室に行き、自作のメロディを提出したが、2時間後に自分の楽譜について一言も話すことができないまま帰ることとなった。先生は2時間、「長く息をすることさえ許されない」状態で話をしたのである。1941年に一等賞を受賞して退官した音楽史のクラスを教えていたルイ・ラロワについて、クロード・パスカルは、言語学者としての資質を強調し、歴史的事実(ラロワはモデスト・ムソルグスキーのオペラ『ボリス・ゴドゥノフ』のフランス語訳を制作した)や家庭での観察(教授の部屋の1つには「すべて中国語の本が並んでいた」)によってそれを裏付けている。

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1947年のクロード・パスカルの写真。26歳前後、ということになる。



第37回管打楽器コンクール・サクソフォン部門結果

本日8/27、本選が行われ、結果は、

第1位:五十嵐健太
第2位:山本航司
第3位:住谷美帆
入選:蒙和雅
入選:海老原美保

となった。得点表は下記の通り。


五十嵐健太氏の名前は知らなかったが、6月のヤマハアトリエで開催されたソロコンサートのチラシに、次のようなプロフィールが掲載されていた。

2002年群馬県伊勢崎市生まれ(注釈:日本人の父、ウクライナ人の母を両親に持つ、ハーフ)。5歳の時母親と一緒にウクライナ・キエフに移住。7歳でサックスとピアノを習い始め、合唱団にも参加。2013年キエフ中等音楽学校(KSSMS)に入学し、Yuriy V. Vasylevych氏のクラスでサックスとクラリネットを専門に勉強する。現在、ウクライナ国立チャイコフスキー記念音楽院で学ぶ。ポーランド・ヴロツワフで開催されたヨーロッパサックスフォーラム(2019)やヤマハガルフ奨学生オーディションでの優勝を始め、数多くの国際コンクールで受賞している。ソリストとしてウクライナ国内のオーケストラとの協演の他、キエフサックスカルテットのメンバーとして活動している。これまでに、中国、ギリシャ、アラブ首長国連邦、ウクライナなどの都市でコンサートに出演、今回が日本で初めてのソロコンサートとなる。
2022年5月に特待生として東京音楽大学3年次に編入し、波多江史朗氏に師事。

2022/08/21

日下瑶子氏の博士論文(マスランカのサクソフォン作品を題材として)

昨年度、国立音楽大学大学院の音楽研究科の博士課程を終了された日下瑶子氏は、作曲家ディヴィッド・マスランカ氏の作品やその作曲プロセスを研究されていた。博士論文のタイトルは「デイヴィッド・マスランカのサクソフォーン作品における表現の根源——作曲プロセスの考察を通して——」というもの。この度、最終稿前のバージョンをご厚意で送っていただくことができた。

先行研究のレビューとマスランカ氏の生涯、諸作品の統計、サクソフォンのために書かれた時代別各作品の概説(譜例を引用しつつ続くセクションへの足がかり)、マスランカ氏の作曲プロセスとして重要な側面である「メディテーション」の詳細、そして関連するコラール旋律の引用について、さらに、マスランカ氏とサクソフォンの関わり、初演の演奏者との関わりを明らかにして、結びへとつなげる…という内容。合計350ページの大作だ。

取り急ぎ、4時間ほど使って速読してみた。公開前ということで、あまり詳細な部分まで述べることはできないのだが、日下氏の研究成果を詰め込んだ壮大な内容。内容の詳細はまたの機会(公開後)に譲るとして、3点ほど印象的だった箇所について書いておきたい。

1つ目:これまで私が持っていた疑問…なぜ、コラール旋律はこんなに人の心を捉えるのか、なぜ私はキリスト教徒ではないのにこの旋律に心惹かれるのか、という疑問があった。マスランカ氏が「コラールは『魔法の石』のようだ」コメントしている中で、まさにその理由について直接的に触れている箇所があり、その内容を読んで、長年の疑問が氷解するかのようであった。

2つ目:「レシテーション・ブック」について、雲井雅人サックス四重奏団が初演に至るプロセス、マスランカ氏との邂逅におけるやり取りがつまびらかにされている。極めて個人的な思いだが、その下りを読んでいて、10年以上前にこの作品を何度も(聴衆の前で抜粋含めて6回演奏している)演奏していた時のことを鮮やかに思い出し、また、なかなか納得して演奏できるようにならなかった頃のことを思い出して、ちょっと冷静でいられなくなってしまうほどだった。ダイナミクスやテンポについては佐藤渉さんから受けたレッスン、そのものだ。当時頻繁に活動していたTsukubaSQでの、音を出した時の異常な集中力、練習での試行錯誤、聴衆からの反応は、何物にも代えがたい経験だ。

3つ目:サクソフォンの様々な側面における柔軟性・適応性は、マスランカ氏の各作曲時期のいずれにおいても、ピタリと当てはまるものであったのだ、という、これまで持っていた朧げな印象が、体系的・具体的にまとめられていて、とても嬉しい気持ちになった。

…2つ目は、思い入れが強すぎて、だいぶ論文の内容とはかけ離れてしまったが…。

論文は、1年以内には正式版としてオンライン公開される予定とのことで、そのあかつきにはぜひ多くの方に読まれてほしい。そして、マスランカ作品演奏における日本語で書かれた水先案内の書として、極めて重要な位置を占めることになるだろう。

武藤賢一郎氏のアーカイブ、ラーションの協奏曲

今年2022年の頭あたりから、武藤賢一郎アーカイブチャンネル、という演奏者ご本人公認のYouTubeチャンネルが登場した。武藤賢一郎氏の過去の演奏録音を、本人の許可を得た上で少しずつアップロードしていく、というもので、ペースはゆっくりながら興味深い録音も多く、多くのサクソフォン関係者が注目しているようだ。

https://www.youtube.com/channel/UC_grGJAwV4oel6uPPTuyrtQ

さて、その中で最近アップされたものが、なんとラーシュ=エリク・ラーション「サクソフォン協奏曲」である。しかも、詳細は書かれていないが、これは間違いなく昭和音楽大学のサクソフォンアンサンブルとの共演録音(録音年を知りたい)で、昔私もなぜかMDを持っており、聴いた覚えがある。

揺るぎないこのスタイルは武藤氏の演奏そのもの。極めて高密度の、突き抜けてくるような音も特徴的だが、実際聴こえてくる音と、録音で聴く音(ともすれば油絵の具のようなベタっとした音にも聴こえてしまう)は、また少し違う。2010年には演奏会で生の音を耳にしたことがあるが、印象を大きく変えた覚えがある。

2022/08/17

フレデリック・ヘムケ氏のTeacher's Guide "Saxophone"

「Teacher's Guide "Saxophone"」アメリカ・セルマーが1977年(?)に発刊した教育者向けのガイドブックで、フレデリック・ヘムケ氏が執筆した30ページ程度の小冊子である。販促品のひとつではあると思うのだが、なかなかに凝縮された内容が面白い。下記から参照できる(なぜかJohan van der Linden氏のサイト…)。

http://johanvanderlinden.com/teachers-guide-hemke.pdf

雑な訳だが、イントロダクション部分を機械翻訳。読んでわかる通り、当時アメリカでは当たり前だった(と思われる)"クラリネットとサクソフォンの持ち替え"という行為に対する反論を出発点としている。

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サクソフォンが置かれた苦境と重大な誤用について嘆く必要はない。この楽器は、他の楽器と同じように、極めて真剣に、上手に教えることができることを認識することが必要である。しかも、サクソフォンは、教育学的類似性、という意味で、他の楽器を礎にしてから学び始めるような必要は無く、独立して学ぶことができる。言い換えると、そのような独立した楽器としての教え方が適している、ということだ。

アメリカでは、サクソフォンの指導は確立されているとは言い難い状態だったが、ヨーロッパでは長きにわたり、サクソフォンの技術、音、教育について、特にフランスで確立された流派が広まっている。そのため、この冊子では、フランス流の指導法を基本的な前提条件としている。

生徒の志向がジャズであれクラシックであれ、威厳と音楽性を持って楽器を演奏するためには、ある種の基礎が必要である。このガイドブックは、サクソフォンセクションがアンサンブルに新しいサウンドと重要なカラーを加えるために、あるいは将来有望なサクソフォン奏者が自分の選んだ楽器から最大限の力を引き出すために役立つものである。

すべての管楽器には、音色、音程、音質、音域、テクニックに関連する音響的な特徴があり、また、各楽器にはそれぞれの音響的な特徴がある。一つの楽器を完全に理解するためには、教師は一般的原則・応用面の両方を良く知っていなければならない。ここではサクソフォンの音響的な性質について概略を述べるにとどめ、楽器を教える際の予備的な手引きとすることにする。

サクソフォンは2つの音響的特徴、すなわち単一の拍動するリードと円錐形の管を組み合わせたものである。これらは偶然に組み合わされたものではなく、発明者であるアドルフ・サックスが創り出したものである。サックス氏は、オルガンのパイプを膨らませたような反応をする楽器を作り、倍音列の倍音を余すところなく出すことを可能にしたのである。クラリネットの1つ目の倍音は12度上だが、サクソフォンの1つ目の倍音は1オクターブ上である。そのため、指使いが比較的単純である。また、この楽器の特徴的な音質もこのためである。

すべてをオーバートーンで鳴らすことは現実的ではないので、高音域の演奏を機械的に補助する工夫がなされている。弦楽器では、指で弦の中間を止めるとオクターブが出る。サクソフォンでも原理は同じだが、空気の柱を分割しなければならない。そのためには、ボディの側面に小さな穴を開け、中の気柱を断ち切る必要がある。もし、Low DからMiddle C sharpまでを、C sharp以上の音を出すための基礎と考えると、これらの基礎を完全に1オクターブ上げるには、少なくとも12個の穴が必要であることがわかるだろう。

しかし、サクソフォンには2つのオクターブキーしかなく、これ以上の数は機械的に非現実的である。その結果、可能な限りの補正を施しても、完全に調律され、機械的に健全で、演奏者の妨げにならない楽器を作ることは、音響的に不可能であることがわかる。優れた楽器では、この問題は最小限に抑えられますが、楽器の先生はその意味を見過ごすことはできない。

サクソフォンのいくつかの音は、この楽器の音階の中でわずかにシャープまたはフラットになる傾向がある。このような音は、演奏者の感性が優れていれば、アンブシュアの微小な調整によって、正しい位置に近づけることができる。サクソフォンは、他の管楽器と同じように、ある特定の音程で最もよく調律されるようにできている。マウスピースの位置を変えると、ある音は他の音よりも大きく変化するため、この音程を上下させると、必ず調律が狂ってしまう。

弦楽器奏者が音程に注意を払うように、サクソフォンもその柔軟性から、初心者のうちは非常に音程に対して敏感でなければならない。サクソフォン奏者が成長するにつれて、口腔内、アンブシュア、息、あるいは別の指使いを微妙に調整しなければならないことに気づくだろう。しかし、サクソフォンは指使いが単純であるため、若いうちは技術的なことだけを考えて演奏してしまう。そのため、イントネーションや音質、音楽性などの習得が遅れてしまう。そのため、若いサクソフォン奏者は「ゆっくり練習すること」を学ばなければならない。

サクソフォンに特化したクラスを教える場合に比べ、異種混合楽器のクラスを教える必要がある場合、問題は深刻化する。この点で、資格のある教師によるサクソフォンの個人レッスンは、通常のクラス指導を補う貴重なものである。

サクソフォンから"最高の結果を得る"ためには、サクソフォンを高い音楽的成果を上げることができる主要な楽器として扱うことである。サクソフォン・セクションを充実させるために、クラリネットや他の楽器から始めて、後でサクソフォンに交代させるようなことはしないでほしい。このような古い習慣は、サクソフォンを始めるのに不適切であるだけでなく、この楽器の多くの問題を解決するのを妨げています。また、サクソフォンは副次的な楽器であるかのように思われていますが、決してそうではない。

2022/08/16

フレデリック・デザンクロへのインタビュー

指揮者のHervé Niquetが、アルフレッド・デザンクロの「レクイエム」を録音した際、Stefan Grondelaersとともに、フレデリック・デザンクロ(アルフレッド・デザンクロの息子、オルガニスト)へインタビューした模様を翻訳。

父(アルフレッド)について、「レクイエム」について、自身の経験も交えつつ語っており、極めて興味深い内容だ。

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ーーーあなたのお父様はご自身を「ロマンティック」だと表現していました。それは性格についてでしょうか、それとも作曲する音楽についてでしょうか?

フレデリック・デザンクロ:特に音楽についてです。父はドビュッシーやラヴェルを絶対的に崇拝しており、自らを彼らの後継者の一人と考えていました。そして、ブーレーズのモダニズムに対抗するために、「ロマンティック」という言葉を使い、自らをその陣営に位置づけていたのです。戦後まもなく、この両陣営の対立が顕著になりました。ブーレーズは音楽界の権威を味方につけ、自分のセリエリズムにおける野心を推し進めることに成功しましたが、一方でそのことは、「ロマンティック」な作曲家のキャリアが抑制された、と言っても良いでしょう…そう、私の父のように、です。アルフレッド・デサンクロがはっきりと自分の意見を述べたという証拠はたくさんあります。私は1956年の新聞の切り抜きを保存しているのですが、その中で父は、自分は"20世紀の子"であって、革命家ではない、と力強く述べています。「私にとって、音楽は感情であり、感情を拡げるものでなければならない。作曲するとき、私は音楽がどうあるべきかという既成の定義を持たない」。私が小さい頃、サル・プレイエルで「レクイエム」の演奏を聴いた時、プログラムノートの冒頭には、「このレクイエムは、典礼の伝統に深い敬意を払って書かれたものであり、演劇的な効果は徹底的に排除されている。オーケストレーションにあたり耳障りな楽器は入れておらず、ラテン語によく合う古代の手法に従って処理されている」と書かれていました。さらにプログラムノートには、「現在の"美学"とは断固として距離を置く」とも書かれており、父は「音楽は知的なものに留まらず、それを超えて感情を伝えるべきもの」と固く信じていたのです。さて、この音楽に対する「ロマンティック」な姿勢は、父のおおらかでオープンな性格と同時に、謙虚な姿勢とも重なります。ラヴェルの後を継ぐことを熱望しながらも、巨人であったラヴェルに対し、自身のことは取るに足らない人物であったと感じていたのです。

ーーーお父様のレクイエムが作曲された具体的なきっかけをご存知ですか?

フレデリック・デザンクロ:「レクイエム」は1956年6月の新聞記事ですでに発表されていますが、初演されたのは1963年でした。レクイエムは、明らかに長期にわたるプロジェクトで、そういった意味から、きっかけのような特別な理由があったとは考えにくいですね。

ーーーあなたはオルガニストとして「レクイエム」を録音していますね。あなたにとって、それはどのような意味を持つのでしょうか。

フレデリック・デザンクロ:極めて魅力的で、深い感動を得た経験でした。レクイエムはもともとオーケストラのために構想され、書かれたもので、オルガンのリダクションを演奏した人はそれまでいなかったと思います。また、父はオルガン独奏のための曲を書いたことがありません。ある日突然、私のもとにミステリアスな形で招待が届いたのです。ある晴れた朝のことです。トゥールーズの首席オルガニスト、ミシェル・ブーヴァールから電話がかかってきました。「指揮者のジョエル・スービエットが、自分の合唱団のレベルを上げるために音楽を録音したいそうで、レクイエムなどの古い楽譜に目をつけた。その企画でオルガンを弾いてくれないだろうか?」というのです。曲の詳細を聴いて初めて分かったのですが、そのレクイエムが私の父のものだったのです。いずれにせよ、スービエット氏の録音は、それまでやや狭い世界でしか知られていなかったこの作品の人気を高めることになりました。デサンクロの「レクイエム」は、アマチュアの上級合唱団のレパートリーにもなりつつあるようです。技術的には、最初に受ける印象より難しい作品ですが、私にとっては、完璧に演奏されることよりも、演奏されることが重要なのです。

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フレデリック・デザンクロの写真。上記インタビューでも触れられているHORTUS盤(アルフレッド・デザンクロ「レクイエム」所収)が有名だが、どちらかといえば彼の演奏盤はALPHAレーベルに多く見られる。

2022/08/15

Régis Campo「Zapp'art」

レジス・カンポの名前は、サクソフォン界隈ではこの作品「Zapp'art」でしか名前を見ないのだが、その内容・タイトルの苛烈さが独特である。

簡単な経歴:マルセイユ音楽院でジョルジュ・ブーフ Georges Boeufに作曲を師事。その後、パリ国立高等音楽院に入学し、アラン・バンキャール Alain Bancquartとジェラール・グリゼー Gerard Griseyのクラスで学んだ。1992年には、エディソン・デニソフに師事し、「同世代の中で最も才能のある一人」と評価された。1999年から2001年までは、メディチ荘のレジデント・コンポーザーとして滞在した。

「Zapp'art」は、サクソフォン12重奏とグロッケンシュピールのための作品。作品の成立等については、実はあまり知らず、調べても良く分からないのだが、フランク・ザッパの影響を受け、クラシック、コンテンポラリー、ロックを捏ねて伸ばして叩いて破裂させたような、極めて印象深い作品だ。

原博巳氏が、時折コンセルヴァトワール尚美の授業でこの作品を取り上げていたそうだ。どういった授業内容かはわからないが、サクソフォン専攻生向けにサクソフォンのために書かれた作品を毎回一つ聴いてもらう、というものがあったようで…確認できる限り2011年度から2018年度まで毎年度取り上げられている(2011, 2012, 2013, 2014, 2015, 2016, 2017, 2018)。そのとき流されていた録音が、おそらく下記のもので、パリ国立高等音楽院のドゥラングル・クラスの生徒によるアンサンブル(指揮は阿部加奈子氏)の演奏である。"キレッキレ"な印象を残す。

https://soundcloud.com/kanako-abe-2/r-gis-campo-1968-zappart-for

あまり最近演奏されてはいないようだが、プロフェッショナルな演奏家の方々にはぜひ取り上げて頂きたい作品の一つ。

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カンポ氏はご本人のYouTubeアカウントの充実っぷりが有名だが…もっとも強烈な動画は下記であろう(サクソフォンとは関係がない)。じっと見つめていると、夢に出てきそう。「No animals were hurt in the making of this movie.」とのコメントが痛快だ。

2022/08/14

1999年のギャルド四重奏団

ギャルド・レピュブリケーヌ吹奏楽団の元団員(2000~2001年頃まで在籍?)、ジョルジュ・ポルト Georges Porte氏のYouTubeアカウントなどというものがあるのだが、その中に、いくつか面白い録音・録画がアップされている。

その中から、フランスのスタンダード・レパートリーを演奏している2つの動画をご紹介。演奏者は、下記の通り。

Georges PORTE (S.Sax.)
Guillaume PERNES (A.Sax.)
Marc DUCHENE (T.Sax.)
Michel TROUSSELET (B.Sax.)

1999年7月8日録画。冒頭、日本語のキャプションが付くのが不思議で、なにか日本の企画向けの収録であることに間違いは無いのだが、当時テレビ放映されたのだろうか。演奏は、数ある名録音と比べてしまうと流石に苦しいが(細かい部分で転んでしまう、等も散見される)、貴重な映像である。メンバーのうち唯一、アルトのギヨーム・ペルヌ氏だけが、パリ国立高等音楽院のドゥラングル・クラスの卒業生である(吹奏楽団の中ではバリトンパート)。世代が違うカルテットは珍しく、しかし同時にやりにくさもあるだろう。

ピエルネ「民謡風ロンドの主題による序奏と変奏」

リヴィエ「グラーヴェとプレスト」

2022/08/13

Three Steps Forward

アメリカ産のサクソフォンと吹奏楽のための協奏曲は、とても数が多い。簡単に思い出す程度でも、ダール「協奏曲」、クレストン「協奏曲」、スミス「ファンタジア」、リード「バラッド」「シチリアーナ・ノットゥルノ」、バーンズ「アリオーソとプレスト」、フサ「協奏曲」、マスランカ「協奏曲」、マッキー「協奏曲」、ティケリ「協奏曲」、ブライアント「協奏曲」、マグヌソン「死者の書」、オルブライト「ヒーター」、ボルコム「協奏曲」、ハイデン「協奏曲」「協奏的幻想曲」、…挙げればキリがないのだが、盛んな大学バンド活動、多くの大学に存在するサクソフォンクラス、といったあたりが、この状況を生み出している。

初演後、広く世界中において演奏されるようになる作品もいくつかあり、古くはクレストン、ダール、フサ、リード、最近ではマスランカ、マッキーの各作品くらいのものであろう。しかし、殆どの作品がそもそもの編成が巨大で、演奏機会を捻出することが難しいことから、よほどのインパクトが無いと初演後にアメリカ国内で流行した後に表舞台から消えていくことも珍しくない。

個人的に考える、アメリカ産のサクソフォンと吹奏楽のための作品の中で、最もインパクトが強く、しかしながら今日、アメリカ国外で(国内ではどうか?)知られていない作品は、ネイサン・タノウエ Nathan Tanouye氏の「Three Steps Forward」である。衝撃的な作品んにも関わらず、演奏の実現に高い困難が伴い、ほとんど演奏機会に恵まれない。

3楽章からなるこの作品は、もともとネバダ州立大学ラスベガス校(UNLV)の委嘱により制作された。なんと、サクソフォンを含むジャズ・カルテットと吹奏楽のための、クアトロ・コンチェルトなのである。サクソフォンパートは、極めて高難易度な内容であり、即興パートを多分に含む。初演者が豪華で、なんとサクソフォンにエリック・マリエンサル(チック・コリア・エレクトリック・バンドを始めとするフュージョン分野における世界的奏者だ)を迎え、ラッセル・フェランテ、ジミー・ハスリップ、ウィル・ケネディといった一流のスタジオミュージシャンを加えた強烈な布陣であった。

30分の作品だが、「クラシックとジャズの融合」というありきたりなワードを新たな形で見事に体現した作品。編成の難しさと、初演のインパクトの大きさはあるものの、ぜひもっと世界的に知られて良い作品だと思っている。

Thomas G.Leslie指揮UNLVバンドの録音。初演者とほぼ同じ布陣である(ベースはジミー・ハスリップに代わり、ダイヴ・カーペンターが担当)。ジャケットの何ともいえない雰囲気は、アメリカならではか。

2022/08/10

クレンペラーのブランデンブルク(ミュール参加)

1950年のプラド音楽祭からさかのぼること4年、1946年7月2-8日の録音で、オットー・クレンペラー指揮プロ・ムジカ・オーケストラの「ブランデンブルク協奏曲第2番」の録音に、マルセル・ミュール氏が参加している。

プロ・ムジカ・オーケストラは、ラムルー管弦楽団からピックアップされた奏者が参加しているオーケストラ。この録音には、Paolo Longinottiというスイスのトランペット奏者が担当する予定だったところ、参加できなくなり、ミュール氏が呼ばれたとのこと(詳しい経緯はクレンペラーの評伝「"Verzeiht, ich kann nicht hohe Worte machen": Briefe von Otto Klemperer 1906–1973」に書かれているそうだが、同資料は未入手)。ちなみに、クレンペラーの「ブランデンブルク協奏曲」録音といえば、1960年のフィルハーモニア管弦楽団とのタッグによるものが有名だが、そちらでは原曲どおりにトランペットがフィーチャーされている。

プラド音楽祭のカザルス指揮の録音と比較してアンサンブル的な完成度は高く(セッション録音であるから当たり前か)、何度も聴くことを考えるとこちらのほうが好み。もちろん、カザルス指揮の、丁々発止という言葉を地で行くような活き活きした音楽と、ソリスト陣の妙味も大変な魅力があるが…。

クレンペラーの指揮姿の写真。

2022/08/07

1950年に開かれたプラド音楽祭について

マルセル・ミュール氏がソプラノサクソフォンで参加した、プラド音楽祭のバッハ「ブランデンブルク協奏曲」の録音は有名だ。1950年にプラドで開かれたこの音楽祭では、高名なチェリストであるパブロ・カザルスを芸術監督とした種々の演奏会が開かれ、その多くが録音として後世に残されている。

そもそも、音楽祭の開催経緯等について良く理解していなかったなと思い、少し調べてみたところ、「Festival Pablo Casals」という、現代の音楽祭のページにプラド音楽祭のことが書かれていたので、訳してみた。

事の発端は、1939年、カザルスがスペイン内戦のため、フランスへ亡命し、スペインとの国境に近いプラドに居を構えることから始まる。その後、欧州での大戦集結(1945年5月ドイツ降伏)直後である1945年、6月から演奏活動を再開したが、各国政府がスペインのフランコ政権を容認したことに抗議、同年11月から演奏活動を停止していた。

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アレクサンダー・シュナイダーのプロジェクトは、バッハの没後200年記念にカザルスを説得して音楽祭を開催する、というものであった。この時ばかりは、ヨーロッパとアメリカの偉大な演奏家たちが、旅費とギャラ無し、という条件を受け入れたのだ。そして、その利益は、多くのスペイン人亡命者が治療を受けていた、ペルピニャンの病院に還元された。カザルスは、様々な批判的な意見を理解しつつも、この提案を拒否することはできないと理解していたようだ。音楽祭の開催、オーケストラ結成、リハーサルはリスクを伴う仕事であり、カザルスはその危うさを十分承知していた。当時、プラドという小さな町には、まともなホテルは30室しかなく、ペルピニャンとの交通も不便であった。資金集め、移動と音楽家の受け入れ、宣伝、さらに3週間で12回のコンサートを開催できる場所を見つけなければならなかった。アレクサンダー・シュナイダーは、この音楽祭の資金調達のためにアメリカで委員会を設立し、現地では、カザルスの周りに多くのボランティアが集まりつつあった。この過程で、カザルスはようやく疲弊から脱し、新しい活力生命を手に入れることができた。

73歳のカザルスは、誰よりも自分の力を出し切っていた。50日間の準備期間中、カザルスは父性、熱意、静寂の入り交じった表情でリハーサルを指揮し、「バッハは世間で言われているような堅苦しい機械人間ではありません。バッハは、民俗学から不断に学んでいる繊細な人間なのです。私たちは彼のような感性で演奏しなければならない」と述べている。

1950年6月2日午後9時半、音楽祭の初日、プラド教会には扉が閉まりきらないほどの聴衆が詰めかけた。司教であるMonseigneur Pinsonが歓迎の辞を述べ、続いて、パブロ・カザルスが入場。一礼し、バッハの無伴奏チェロのための組曲第1番ト長調でコンサートの幕を開けた。

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音楽祭のポスター。チェロを弾く天使の絵が強烈な印象を残す。


私が同録音の復刻盤として入手したPearl盤のジャケットにも、同じ絵があしらわれている。

Wo das Licht die Saite kreuzt - Poem nach Debussy

Ries&Erler版(Detlef Bensmann編曲) の「Wo das Licht die Saite kreuzt - Poem nach Debussy」は、ドビュッシー「ラプソディ」の亜種?として把握しておくべき作品である。ドビュッシー「ラプソディ」を発展的にアレンジした、という内容で、ヴァイオリン、サクソフォン、ピアノ、もしくはサクソフォン(S/A持ち替え)、ピアノの編成で演奏される。

実際に聴いてみると、ドビュッシー「ラプソディ」の、コラージュ的作品という装いだが、特殊奏法を効果的に使いながら、万華鏡のような雰囲気を創り出し、なかなか面白い作品に仕上がっている。原曲と比べる、というよりは、新たな作品として浸かってみたほうがいろいろな発見ができることだろう。

日本では、2012年に佐藤淳一氏のレクチャーコンサートで演奏され(演奏は伊藤あさぎ氏)て以降、実演は聴いたことがない。

2022/08/06

ガロンの和声学クラスの写真

BnFの所蔵資料に、ガロンの和声学クラス(1929~1930年)の集合写真を見つけた。デザンクロが写っているらしい(が、…どれだろうか)。

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2022/08/03

トルヴェール・クヮルテットのデビュー当時紹介文

日本サクソフォーン協会報:サクソフォニスト No.8(1988年4月発刊)より、デビューリサイタル直前のトルヴェール・クヮルテットの紹介文を抜粋。磯田健一郎氏の軽妙な語り口(カタカナ語は80年代ならではか)が楽しい。

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 『トルヴェール』という語のイメージをみなさんはどのように感じられるでしょうか?おそらくそのどれとも程遠いように見える(失礼!!)四人の若手奏者によって結成されたのが、このカルテットなのです。

 『スガワチック・サウンド』でつとに有名な須川展也氏が、ある日「うーん、カルテットやりたいよー」とダダをこね、彦坂眞一郎、新井靖志、田中靖人といった荒武者を、奥サンをクドいた時よりも熱心にクドき、あるいはオドし、あるいはソデの下を渡して結成したという秘話があります。その結成日は定かではありませんが、初めて四人が顔を合わせて音をだしたのは、私が依頼したスタジオワークでありました。(ギャラ払ったっけ?)

 この時録音したのが、私の『アンプロンプチュ』という曲でありまして、コレがマズかったのではないかと、大変心配しておるのであります。来年一月に文化会館小ホールで、このカルテットのリサイタルが開かれる予定ですが、おそらくその時この幻の名曲が聴かれることでしょう。(爆笑!!)

 冗談と我田引水はさておき、彼ら四人は「邪道も正道もカンケーない。必要なのは何を表現し、どう楽しむか、だ」という問題意識を持った、先が楽しみなプレイヤー達だと思います。フランス現代の四重奏曲の正面から挑戦しつつ、他ジャンルへの乱入もこだわりなく行い、おざなりの演奏をすることなく、積極的に自ら楽しみ、表現していく。あたりまえのことのようですが、これを本当に理解し実践している人はほとんどいません。この意味でも、このカルテットの誕生に立ち会い、身近にその演奏を聴けるのは、全く幸せだ、と思っております。

 とにかく若い四人ですから、火花が飛んだり、プッツンと爆走したりといろいろあると思いますが、それらを通過した時どんな音を出してくれるか?油断のならない連中なのです。

(磯田健一郎・作家・評論家)

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これはだいぶ新しい写真…。



第19回WSC日本開催辞退の報

第19回世界サクソフォン・コングレス(日本・倉敷市開催)について、"日本での開催を辞退する"とのアナウンスが公式ウェブサイト上で発表された。

第19回サクソフォーンコングレスHP (japan-sax-congress.com)

以下、開催委員会のコメント全文。


世界サクソフォン・コングレス開催のオブザーバーであるInternational Saxophone Committeeの反応・コメント等については特に記載が無い。しかしながら、日本国内の委員会の方向性が辞退方向で一致しているのであれば、決定がひっくり返ることは考えられず、第19回日本開催は無くなったと言い切って差し支えないだろう。

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追記:Internal Saxophone Committeeのウェブサイト上でも正式に発表された。アンケートもあるので、興味ある方は回答してみてはいかがだろうか。