2022/07/31

栄光のギャルド・レピュブリケーヌ吹奏楽団

赤松文治氏の著作「栄光のギャルド・レピュブリケーヌ吹奏楽団(音楽之友社)」を中古で入手。言わずと知れた表題の吹奏楽団について、下記のような情報を体系的・詳細に網羅した(おそらく)唯一の著書である。

I.フランス親衛隊の歴史と軍楽隊誕生までの背景
II.ファンファール隊の誕生から今日までの輝かしい歴史
III.親衛隊軍楽隊の現状
IV.歴代楽長のプロフィール
V.歴代の楽長補と副楽長
VI.歴代のメンバーと名楽手達
VII.演奏活動の歩み
VIII.ディスコグラフィー
IX.親衛隊喇叭鼓隊」と騎兵ファンファール隊

「I.フランス親衛隊の歴史と軍楽隊誕生までの背景」では、13世紀の儀伏隊時代から19世紀のパリ市親衛隊まで、時代とともに変遷した親衛隊の歴史を、「II.ファンファール隊の誕生から今日までの輝かしい歴史」では、ナポレオン大統領の下創設されたパリ共和国親衛隊時代のファンファール隊の誕生から、著作発刊の1988年当時までの楽団の変遷を、各時代の詳細な編成(どの楽器が何人、等)とともに述べている。「III.親衛隊軍楽隊の現状」は、1988年当時の楽団の、ブトリー楽長以下、楽団の主要メンバーに至るまでのプロフィールと、活動履歴(海外遠征含む)の詳細を述べ、「IV.歴代楽長のプロフィール」「V.歴代の楽長補と副楽長」で再びファンファール隊の誕生にさかのぼって、同隊の初代(楽長ではなく)伍長喇叭長であるポーリュスのプロフィールから、1969年まで楽長を務めたブラン楽長、1977年まで副楽長を務めたガレ副楽長のプロフィールまでを網羅する。「VI.歴代のメンバーと名楽手達」は、50ページ近くのボリュームが割かれた本著作で最もコアとなる章であり、1859年当時の、ファンファール隊から吹奏楽形態への移行当時の名簿から、時代ごとの名簿を元に、主要なメンバーのプロフィールを述べている。「VII.演奏活動の歩み」は、1867年の欧州軍楽隊コンクールで一等を獲得した時代から現在に至るまでの、主要演奏イベントとレパートリーを、「VIII.ディスコグラフィー」では、シリンダー時代からLP時代の最終期までの全レコーディングを網羅、さらに、国内盤の情報も掲載されている。「IX.親衛隊喇叭鼓隊」と騎兵ファンファール隊」では、乗馬演奏を行う騎兵ファンファール隊の成り立ち、演奏、ディスコグラフィが、短くまとめられている。

このように、盛りだくさんの内容だが、これは著者の赤松氏が、調査・執筆当時、楽団最古参の演奏者であり楽手長でもある、コントラバス・サクソルン奏者のルネ・マゾー氏から入手した種々の資料を活用しているとのこと。マゾー氏自身も、独自に「La Musique de la Garde Republicaine de ses origins a ns jours」という、ギャルドの歴史をまとめた著作を手掛けている。

読み進めていくと、マルセル・ミュール氏ほか、ギャルドに参加していたサクソフォン奏者のことも詳しく記されており、いずれ抜粋して紹介していこうと思う。

著者の赤松文治氏とは、果たして何者だろうか。吹奏楽関係の研究者として名が知られているが、詳細な経歴等が調べきれなかった。巻末に著者の連絡先として住所が掲載されているのだが、国会議事堂と同じ地区の「永田町一丁目...」とのこと。只者ではなさそうだ。

2022/07/30

デファイエ参加のミヨー「世界の創造」ライヴ演奏

2008年に発売されたバーンスタイン生誕90周年記念のDVDボックスに、1976年11月8-9日に収録された、フランス国立管弦楽団とともに演奏したミヨー「世界の創造」のライヴ映像が含まれている。この布陣での「世界の創造」の演奏は、併録のフランク「交響曲」、ミヨー「屋根の上の牛」とともに、これらの演奏のデジタルの映像メディアとしては初出で、発売当時非常に話題になった。

「世界の創造」は、サクソフォン奏者としてダニエル・デファイエ氏が招聘されており、デファイエの演奏姿をたっぷり堪能することができる。下記は、冒頭の抜粋映像。

さて、おなじみPastdailyに、1984年のフランス国立管弦楽団訪米にあたって事前にラジオ放送されたという、1976年11月のバーンスタインxフランス国立管弦楽団のライヴ録音がアップされていた。プログラムは下記の通り。

Milhaud – Le Creation du Monde
Schumann – Cello Concerto in A Minor – w/Rostropovitch
Bloch – Schelomo – w/Rostropovitch
Milhaud – Le Boeuf sur le toit
Milhaud – Corcovado from Suadades do Brasil

https://pastdaily.com/2022/07/27/leonard-bernstein-mstislav-rostropovich-french-national-orchestra-live-1976-past-daily-mid-week-concert/

DVDの演奏と聴き比べてみたところ、テープスピードの違いによりピッチの差があるが、同じ演奏だと断定できた。同コンサートの全編を聴ける、という意味で、貴重な記録だ。そもそもロストロポーヴィチがゲストに来てチェロ協奏曲を演奏していたことに驚き。

2022/07/27

Aurelia SQ plays Tipperaly Concerto


かつて、オランダを代表するサクソフォン四重奏団であった、アウレリア・サクソフォン四重奏団演奏の、JacobTV「Tipperaly Concerto」の演奏。2014年の、オランダで開かれたサクソフォンフェスティバルの映像だそうだ。長らく同四重奏団のメンバーであった、ソプラノのJohan van der Linden氏、バリトンのWillem van Merwijk氏が脱退し、下記のような布陣となっている。

Femke IJlstra (sop)
Niels Bijl (alt)
Arno Bornkamp (ten)
Juan Manuel Dominguez (bar)

以下、JacobTV自身の作品解説である。

アウレリア四重奏団と私のコラボレーションには長い歴史があり、1998年の「ピッチブラック」を皮切りに、いくつかの四重奏曲のほか、アルノ・ボーンカンプのための「Tallahatchie Concerto」など、メンバー個人のためのソロ作品も発表している。この協奏曲を作曲し始めたのは、ちょうど第一次世界大戦が始まって100年後だった。当時よく歌われていた、アイルランド兵が歌い、イギリス、ロシア、フランスの兵士が真似たジャック・ジャッジの「ティペラリーへの長い道のり It’s a long way to Tipperary」という歌を思い出しながら筆を進めた。ティペラリーはアイルランドの小さな町で(ジャック・ジャッジも行ったことがなかったそうだ)、この歌はホームシックにかかった兵士たちの気持ちを表現している。第二次世界大戦中も、その曲は兵士たちの間で人気があり、私は父が歌っていたのを覚えている。

ティペラリー協奏曲は、穏やかなアダージョで始まり、「リキッドブルース」、スケルツォ、速い終楽章が続き、アダージョを回想するコーダに至る。

2022/07/25

俺は作曲家だ!

オネゲルの著書「Ju suis compositeur」のタイトルを見て、作曲家 小櫻秀樹氏のサクソフォン+ライヴエレクトロニクス作品「Komponist-Bin ich!(邦題:俺は作曲家だ!)」のことを思い出した。

2006年にただの一度ライヴで聴いたことのある作品で、重量級の内容に圧倒されたものだ。その時、演奏したジェローム・ララン氏が、曲冒頭の「Komponist-Bin ich!」と叫ぶ箇所をフランス語で「Ju suis ma compositeur!」と言い換えていたのだ。妙な流れだが、思い出した理由はそんなところ。

その後、作品のことはすっかり忘れていたのだが、この機会に調べてみたところ、なんとヨリエン・ペッテション Jorgen Pettersson氏の演奏で2011年に商用録音化されているではないか。驚いた。「Spanning: Scandinavian Electro Acoustic Music」というアルバムで、最後のトラックに当該作品が収録されている。なぜ日本人作曲家の作品が、「Scandinavian」のアルバムに?という疑問はあるが、ブックレットを読んでいないので良く分からない。

はじめて聴いた時は、迫力に圧倒されてしまい、細かい部分を聴くことが叶わず、大味な印象しか残らなかったのだが、こうして整理されたレコーディング、ミキシング、マスタリングで聴くと、立体的な音響効果を活用している箇所の面白さに気づき、また、クライマックスにおいても(意外と)繊細な部分も耳に付き、楽しめた。

2022/07/23

メシアン、オネゲル、デザンクロ

オネゲルの著書「Ju suis compositeur」の中に、メシアンの作品をめぐっての、デザンクロが登場する短いインタビューの一節がある。デザンクロと直接関係するわけではなく、メシアンの音楽に関する記述だが、ちょっと面白かったので翻訳してみた。

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(…略)しかし、メシアンの作曲法は非常に緻密である。

私たちは、彼が完全四分音符と補数四分音符の和音で構成された”カスケード"を好んでいることを知っている。また、リズムの複雑さや、エキゾチックなモードと結びついた教会モードの使用に対する彼の好みも理解している。

個人的には、このようなリズムの繊細さに関係するものには懐疑的である。楽譜の上では何の重要性もなく、演奏の上でも気づかれないままであるからだ。

個人的な例を挙げよう。メシアンは、私が肖像画を描いてもらっているときに、「幼子イエスに注ぐ20の眼差し」を演奏しに来てくれた。私はじっと座っていたのだが、当たり前だが即座に反応ができない。そこに同席していたのは、メシアンと同世代の優れた音楽家、アルフレッド・デザンクロだ。私には、ある曲が完璧に澄み切った輝きを放って聴こえた。「なんて澄んでいて、清冽なんだ!」と私は叫んだ。すると、楽譜を見ながら聴いていたデザンクロが、「いや、私はとても複雑で混沌としていると思う」と言い返した。「冗談でしょう!」と私は答えた。と私は答えた。「ほら。自分で見てみろよ」とデサンクロは言った。実は、私が演奏者のリズムの気ままさと思い込んでいたものが、完全に記譜されていることが分かった。価値の半分は、極めて複雑な記譜なのであった。耳は、ある種のルバートで演奏された3拍子のパッセージを知覚していたのに、目で見ると狼狽してしまったのだ。

ーーー私もあなたと同じように、ルバートの記譜は虚構である…と思います。繊細な解釈の持ち主であれば、このパッセージを遅らせたり、早めたりすることができるのに、ルバートの記譜は無駄に手間をかけることになるのです。

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オネゲル近影。

2022/07/20

ロジェ・カルメル サクソフォン作品集

3年前に突如として発表されたアルバムで、発売当初あまりの内容の「濃さ」に勢い余ってFacebookに投稿したことを思い出す。

フランスの作曲家、ロジェ・カルメルのサクソフォン作品集「Roger Calmel - Oeuvres pour quatuor de saxophones」。それだけでも驚きなのだが、奏者が「Quatuor 1846」という(おそらく臨時編成の)団体で、メンバーがJean-Pierre Baraglioli, Philippe Portejoie, Fabien Chouraki, Serge Bertocchiという、フランス・サクソフォン界のベテラン布陣。さらに、有名な「コンチェルト・グロッソ」は吹奏楽編曲で、Jean Louis Delage指揮ポンピエ吹奏楽団との演奏という、直球なのか変化球なのか、コメントしづらいほど。

聴く前にすでに満腹状態だが、実際の演奏内容も(微温的と形容してしまう箇所もあるにせよ)しっかりしていて、「ロジェ・カルメル サクソフォン作品集」として広く知られるべき内容だと思う。各種ストリーミングサービスで聴くことができる(「Roger Calmel」で検索)。デジタルアルバム形式以外での流通を知らず、もしかしたらデジタル限定なのかもしれない。

カルメルといえば…と昔アンリ=ルネ・ポラン氏にお借りした資料を探したところ、1976年のデファイエ四重奏団の演奏のプログラムのスキャンデータを見つけた。指揮はPol Mule(マルセル・ミュールの息子)で、「コンチェルト・グロッソ」を演奏している。

2022/07/18

デファイエ氏の公開レッスンの録音

1978年、浜松におけるダニエル・デファイエ氏公開レッスンの模様。浜松北高校のカルテットがレッスンを受けており、ソプラノを当時高校二年生の須川展也氏が吹いている。通訳はビュッフェ・クランポン・ジャパンの保良氏であろう。

急にひと月ほど前にアップされた録音だが、アップしたのは誰だろう?もしかしたら受講メンバーかもしれない。

2022/7/23追記:アップロードしたのは受講メンバーの方だそうだ。情報を送っていただいた皆様、ありがとうございました。



2022/07/17

マルセル・ミュールと第一次世界大戦

ユージン・ルソー著「Marcel Mule: Sa vie et le saxophone」より、第一次世界大戦にまつわるミュールのインタビューを翻訳した。

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R:第一次世界大戦が始まったとき、あなたはちょうど13歳で、ルーヴィエの上級小学校で学んでいましたね。その時のことを何か覚えていますでしょうか。そしてそれが、あなたやあなたの家族にどのような影響を与えたかを教えてください。

M: はい、そうですね。控えめに言っても、とても大変な時期でした。私はルーヴィエでエコール・スペリユール Ecole Supérieureに通っていました。エコール・ノルマル・ディスティチュール Ecole Normale d'Instituteurs(師範学校)への入学準備のためで、エコール・スペリユールには3年間在籍していました。その間、父は軍隊に召集され、18ヵ月間ヴェルダンに駐屯していました。幸いなことに、これは悪名高く血生臭い"ヴェルダンの戦い"の前のことでした。父は、戦争に不可欠な製品を製造する冶金工場に雇用されていたのですが、18ヵ月で戻ることができました。私がルーヴィエで学校に通うために、ある程度の出費が必要だったのですが、父にはほとんど収入がありませんでした。この3年間は、家族にとって大変な時期でした。

R:戦争中の音楽生活について、何か思い出すことはありますか?

M:そうですね、ひとつには放送がまだ確立されていなかったということがあります。今のようなラジオ局もなく、また、レコード産業もありませんでした。だから、演奏家というのは、その時代、世界の主要都市で演奏することで聴衆に認知され、徐々に名声を得ていくようなものでした。そのため、コンサートホールに加えて、生の音楽を聴くことができる劇場がありました。私の記憶では、第一次世界大戦中もパリの芸術生活は支障なく営まれていた。しかし、そのおかげで、他の方法では仕事を得ることができないような演奏家にもチャンスが与えられたのです。しかし、地方では、戦争があろうとなかろうと、芸術的にはまったく話にならない。私はパリから来たのですが、賑やかなパリの芸術的生活とは対照的でした。

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文中に出てくるルーヴィエは、パリの北西100kmに位置する小都市。ルーアンよりパリ寄りである。

2022/07/16

Aage Voss演奏のロナルド・ビンジ「サクソフォン協奏曲」

Aage Vossが独奏者を務め、作曲者自身の指揮、South German Symphony Orchestraとともに演奏されているロナルド・ビンジ「サクソフォン協奏曲」の録音。1971年にRediffusionレーベルからリリースされたもの、とのこと。

Aage Vossは、ジャズサクソフォン(アルト&バリトン)奏者として名を馳せ、多くのジャズの録音にクレジットされているデンマークの奏者。奏法・音色は完全にジャズのスタイルで、本作品に合っているか…と問われると個人的にはそうとも思えず、作品そのものがヴィルトゥオジティを表現するような箇所もなく、サクソフォン的に特筆すべき部分は特に無い。

しかしながら、オーケストラの、底抜けの明るさが楽しい。本作品の魅力の一つ、ということで「第2楽章のロマンティシズム」とともに言及されることの多い「第1楽章のサクソフォンが入るまでの開始20秒間の前奏」を聴くだけでも価値大アリだ。作曲者ビンジ自身の指揮、というのも興味深い。

Aage Vossの写真を探すのには苦労した。下記写真の中央に位置するサクソフォン奏者(ベース奏者のすぐ前に座っている)だそうだ。デンマークのジャズバンドの写真。

2022/07/15

バーミンガム市交響楽団の東京文化会館公演(1987年)

 サイモン・ラトル指揮バーミンガム市交響楽団演奏の、ベンジャミン・ブリテン「シンフォニア・ダ・レクイエム」。10分35秒付近にサクソフォン奏者が映るが、奏者名分からず。特段サクソフォンの演奏についてコメントは無いが、時代を感じる。



2022/07/13

「ワルツ形式によるカプリス」をソプラノで

スウェーデンのサクソフォン奏者Anders paulssonの、「A Date wih a Soprano Saxophone」というアルバムにはポール・ボノーの「ワルツ形式によるカプリス」が収録されている。しかしながら、アルバムタイトル通り、ソプラノサクソフォンで演奏されているのが珍しい。

キーは思い切りよく変えて(楽譜をin Bbで読む)いるのだが、違和感が先行するかと思いきや、聴いた瞬間に「これは可愛らしい!」と思ってしまった。何か小さくてコミカルなキャラクターの動きにそのまま付けられそうな音楽で、アルトサクソフォンで演奏されたときに感じる、「名人芸を披露する無伴奏作品」というイメージからかけ離れてしまっているのが楽しい。

2022/07/11

Bl!ndmanの名前の由来

ベルギーに、Eric Sleichimというコンポーザー・サクソフォニストが創設した、Bl!ndmanという非常に独特な活動をする団体がある。彼らのバッハ作品集に驚いた方も多いことだろう。その名前の由来が、どうも良く分からないのだ。

以下、Bl!ndman公式ページのEric Sleichimの項目から。

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The name BL!NDMAN refers to the magazine The Blind Man, edited by Marcel Duchamp in 1917 in New York. This title is based on the Dadaist idea of a blind guide that leads the public through exhibitions.

BL!NDMANという名前は、1917年にマルセル・デュシャンがニューヨークで編集した雑誌『The Blind Man』に由来しています。このタイトルは、展覧会を案内する盲目のガイドというダダイズムの考えに基づいています。名前にある「!」マークは、BL!NDMANの前身の団体であるMaximalist!から引用されています。

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とのことで、デュシャンが手掛けた「The Blind Man」創刊号表紙画像がこちら。

斜め読みしたのだが(わずか8ページ)、「盲目の男が展覧会を案内する」という考え方と、直接的につながる箇所が見当たらず、モヤモヤしているところ。各所で述べられている、「The Blind Man」は独立性を保つ、という編集グループの考え方と関連しそうなのだが、裏付けられないため、うまく説明できず、悩んでいる。

2022/07/09

ジャニーヌ・リュエフについて(MeMより)

Musica et MemoriaのJeanine Rueffにまつわる部分を翻訳。

http://www.musimem.com/prix-rome-1940-1949.htm

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1999年9月22日、マルセル・ビッチュとジェラール・カルヴィは、ジャニーヌ・リュエフを墓地へと送り出した。彼らは、パリ音楽院在学中にジャン・ギャロンの和声クラスでトリオを組んだが、そのきっかけは、相互の高い共感によるものだった。リュエフは、40年近く教えていた国立高等音楽院を数年前に退職していた。

1922年2月5日、パリで生まれた彼女は、クロード・ダルヴァンクールが院長を務めていたパリ音楽院に若くして入学した。この頃、ダルヴァンクールの働きによって、音楽院は広く認知されることになった。例えば、有名なカデット・オーケストラは、パリにおいて最も人気のある楽団の1つになったほどだ。リュエフは、トニー・オーバン、アンリ・シャラン、ジャン/ノエル・ガロン、そしてアンリ・ビュッセルといった巨匠のもとで教育を受け、1948年にはオデット・ガルテンローブに次いで次席を獲得した。2年後、音楽院でマルセル・ミュールのサクソフォン・クラスとユリス・ドゥレクリュスのクラリネット・クラスの公式ピアノ伴奏者となる。これらのクラスは、サクソフォン奏者のジャン=マリー・ロンデックス、クラリネット奏者のミシェル・ポルタルを輩出するなどした。1960年から音楽理論、1977年から和声を教え、1988年に退職した。ジャン=ミシェル・ジャールは彼女の教え子の一人である。また、C.A.E.M.のCentre national de préparationにてソルフェージュ・クラスの教授を務めた。

作曲家としても重要な作品を残した。1945年には早くもピアノ五重奏曲でPrix Favareille-Chailley-Richezを受賞している。この作品は、当時としては極めてモダンなもので、ジャズのテクニックからインスピレーションを受けていると思われる箇所もある。陽気で、ユーモラスでさえあるこの曲は、Lent et Allegro、Lent、Vifの3楽章で構成されている。バストロンボーンのためのConcertstückeは、1999年にゲブウィラーで開催された国際トロンボーン・コンクールの課題曲となった。フルート、バソン、コルネット、トロンボーン、チューバ、コントラバス、チェンバロのための作品、リードトリオのための3曲、サクソフォーンのための四重奏曲、室内オペラ(La Femme d'Enée, 1954)、シンフォニエッタ(1956)、教育的作品も書いている。1997年、L'ensemble Saxallegro(サクソフォン:Hannes Kawrzaとオルガン:Florian Paqitschのデュオ)は、ウジェーヌ・ボザ、ピエール=マックス・デュボア、ジャック・イベールの作品とともにリュエフの「シャンソンとパスピエ」を録音した。

2000年4月、ルデュー・サクソフォン四重奏団はマントンのカルノレス宮でコンサートを開き、リュエフに敬意を表して、ブルターニュの舞曲「パスピエ」を含む6曲からなる「四重奏のためのコンセール」を演奏した。

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向かって左から3番目の女性が、若き日のジャニーヌ・リュエフ。アンリ・ビュッセルの作曲クラスの集合写真である。ちなみに、一番左がGeorges Delerue(サクソフォン作品「Prism」が思い浮かぶが、一般的には映画音楽で有名、アカデミーのオリジナル作曲賞を獲得したこともある)、写真の一番右(ピアノに座っている手前の男性)がJean-Michel Damase(サクソフォン界隈では言わずと知れた…!)だ。

2022/07/06

織田英子「東回りの風」第4曲:Old Danceの原曲

『この曲は1996年にノワイエ・サクソフォーン・アンサンブルのリサイタルのために書いたものです。一曲目「As I walked out」は、イギリスの古い民謡。2曲目「ザッパイ」は16世紀ルネッサンスの舞曲です。3曲目の「グリーンスリーブス」は18世紀イギリスの民謡。4曲目はフランスの作曲家、ジェルヴェーズの「4声のための舞曲集」より。』

織田英子「東回りの風」の解説文である。グリーンスリーヴス以外は、原曲を聴いたことがなく、探したところ、第4曲の原曲を見つけることができた。クロード・ジェルヴェーズ Claude Gervaiseという作曲家の、Danceries Suite IVから、"Bransle II"である。Bransleとは、ブランルと読み、16世紀前後のヨーロッパ、特にフランスを中心に普及した舞曲の形態の一種である(語源はフランス語で「揺れる」を意味するbranlerとされる)。もともとは庶民が野外で踊っていたものをバス・ダンスのステップとして取り入れたもので、後に単独の舞踊となった(Wikipediaより一部引用)。

下記は、Ensemble Musica Antiqua/Novus Brass Quartetの演奏(YouTube Musicを契約していないと再生できないかもしれない)。

IMSLPにて、原曲の楽譜を参照することもできた。出版は1556年とのこと。

「東回りの風」第4曲の録音としては、林田和之氏による下記の多重録音が最高のものだろう。

https://soundcloud.com/kazuyuki-hayashida/old-dance

2022/07/03

ゴトコフスキーのサクソフォン協奏曲集のこと

ゴトコフスキー「サクソフォン協奏曲」「悲愴的変奏曲」のオーケストラ版の、唯一と思われる商用録音(LP)が、下記出版元サイトから購入できるようだ。「悲愴的変奏曲」はライヴ演奏。On Stockの記載もあり。

https://www.challengerecords.com/products/1385652877

Ed Bogaard独奏、ジャン・フルネ指揮Omroep Orkest/Radio Kamer Orkestによる。極めてハイ・テンションというか、ゴトコフスキー作品らしい、"激情を湛えながら変容を繰り返していく"を地で行くような内容で、聴いていくうちに細かなテクニカル面が気にならなくなってくる。

最近はYouTubeなどにも演奏がアップされるようになったが、私にとってはやはりこの演奏がスタンダードだ。これを聴いて以降、基準にその後の諸々の演奏を耳にすることになった。その中で、藝大フィルハーモニアと中島諒さんの演奏は、やはりトップクラスの内容で、良く聴いている。

2022/07/02

Frederick Hemke plays Husa

フレデリック・ヘムケ氏が演奏するフサ作品「協奏曲」「エレジーとロンド(サクソフォン+木管五重奏版)」の録音。「協奏曲」は、テキサス大学ウィンドアンサンブルとの共演、1971年の録音。「エレジーとロンド」は1972年の博士号リサイタルの録音で、ヘムケ氏自身のアレンジである。


それぞれ、UT Saxophone Studioと、J.Heaneyさん(ヘムケ氏のお弟子さんらしい)によるアップロード。こういった貴重かつ極めてハイ・クオリティな録音が、急に現れ、自由にアクセス可能となるのが、インターネットの醍醐味の一つだ、と思う。

2022/07/01

ゴトコフスキーの音楽的キャリア

引き続き、David Michael Wacyk著「POWERFUL STRUCTURES: THE WIND MUSIC OF IDA GOTKOVSKY IN THEORY AND PRACTICE」より。

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1941年、ゴトコフスキー一家はエッサール・ル・ロワに移住したが、イダは8歳にして才能ある作曲家としての地位を確立した。作曲を志すようになったのは、自分を取り巻く世界から感じたことを表現したいという内面的な葛藤からだった。「夕焼けの向こうに何があるのか、それをどう表現したらいいのか。それを表現できないのは、まさに拷問。それが創作の原動力でした」。確かに、円熟期の作品の作風を見ると、その動機は今も続いているようだ。激情を湛え、連続的に変容していく、ゴトコフスキーの音楽の性質は、表現できないものを表現したいという彼女の願望、ひいては無限への探求を描き出しているのだ。

ピアニスト、作曲家として有望視され、1943年、10歳でパリ音楽院に入学(11歳のときから個人的にピアノを教え始める)。1957年にパリ音楽院を卒業するまでに(ある記者は「マドリード通りの音楽院での非常に長い滞在」とも表現している)、ゴトコフスキーは同音楽院の作曲・文学の一等賞をすべて獲得している。 音楽院在学中は、彼女の作曲スタイルとキャリアに影響を与えた数多くの教師のもとで学んだ。彼女の師匠は次の通りである。オリヴィエ・メシアン Olivier Messiaen、ジョルジュ・ユゴン Georges Hugon(ピアノ、和声、分析)、ノエル・ギャロン Noël Gallon(対位法、フーガ)、アリス・ペリオ Alice Pelliot(ソルフェージュ、聴音)、トニー・オーバン Tony Aubin(作曲)、ナディア・ブーランジェ Nadia Boulanger(作曲)。中でもオリヴィエ・メシアンとナディア・ブーランジェは、ゴトコフスキーに最も大きな影響を与えた教師である。彼女の人生と作曲に与えた影響を考えると、ゴトコフスキーの音楽的な育ちを理解するための基礎として、彼らの指導スタイルの概要を簡単に説明する必要がある。

メシアンは、パリ音楽院では、和声(1941年)、分析(1947年)、作曲(1966年)の教授を務めた。同音楽院で長年にわたって教鞭をとり、多くの若い作曲家が彼の指導を受けることになった。彼の指導法は、生徒の表現の自由を育むものであった。彼は作曲のスタイルを指示することを望まなかったが、弟子たちが彼のスタイル、あるいは作曲家のプロセスの特徴を吸収することは自然なことであった。メシアンの教育スタイルについての調査の中で、ヴァンサン・ベニテスはこう述べている。

メシアンは、自分が信じていることを生徒に強制することはなく、しばしば沈黙を好むことさえあった。それでも、教育を通じて、作曲家として生徒に影響を与えた。彼の教育法は、理想的な作曲家の構成的な見通しを指導するようなものではなく、メシアンその人自身と結びついたものであった。

さらに、ベニテスはこうも語っている。「メシアンは常に生徒の想像力をかき立てようと努めました。その結果、彼らはしばしばクラスの外でアイデアを探求し、議論するようになったのです。」ゴトコフスキーは、メシアンの弟子の多く(ブーレーズ、クセナキス、シュトックハウゼンなど)と同様に、独自の音楽スタイルを持っているが、メシアンは彼女の作曲技法に極めて大きい影響を与えたという。

ナディア・ブーランジェは、第二次世界大戦後、パリ音楽院で教鞭をとっていた。ブーランジェは、メシアンと同様、生徒の個性を伸ばし、その個性が作曲の原動力となるようにすることに関心をもっていた。しかし、ブーランジェは、生徒が自身の作曲のルーツを知っていることを確かめ、しばしば生徒の楽譜を初期の巨匠と比較し、「もっと面白い道を見つけなさい」と促すなど、冷酷な面もあった。ブーランジェは、「私は誰かに独創性を与えることはできないし、それを奪うこともできない。私ができるのは、ただ読み、聴き、見て、理解する自由を与えることだけだ」と述べている。

アメリカの作曲家、ネッド・ロレムは、ブーランジェが自分のクラスで女性を男性よりも高い基準で指導していたと考えている。彼は、「ブーランジェいつも男性の生徒には有利な条件を与え、女性には過大な負担を強いていた」と述べている。このような厳しい目があったにもかかわらず(あるいは、それゆえに)、ゴトコフスキーはブーランジェと永続的な個人的関係を築いたようである。それは、フランス国立図書館に所蔵されている、1957年から1978年までの21年間にゴトコフスキーがブーランジェに送った一連の手紙からも明らかである。これらの手紙は、主に互いの演奏会への招待や出席という形で、彼女たちが互いに賞賛し合っていたことを示す証拠となる(ほぼ全て日常的な内容)。また、ゴトコフスキーの音楽院卒業後も、ブーランジェからのアドバイスやゴトコフスキーの面会の依頼というやり取りが見て取れる。1963年10月に書かれたある手紙は、二人の温かくも堅苦しい生徒と教師の関係を示しており、ゴトコフスキーがブーランジェに対して心を開いていることがわかる(下記書簡の引用を参照)。

マドモアゼル・ナディア・ブーランジェ
バルー通り33番地
パリ9区
親愛なるマドモアゼルへ。
水曜日に「トリニテ」に向けて出発されるとのこと、深く感動しています。どんなに美しく、深い感動を与えてくれることでしょう。親愛なるマドモアゼル、私のことを思ってくださったことに感謝いたします。
土曜日に、私のオーケストラのための「スケルツォが」、コンセール・レフェレンダム・パドルーにて演奏されることをお知らせいたします。
あなたのお時間がいかに貴重であるかを知っているので、聴きに来ていただくようお願いするのは極めて心苦しくもあります。
親愛なるマドモアゼル、あなたの洞察に満ちた慈愛がいかに私の心に響き、喜びで満たされているかをお伝えいたします...私は自分自身を大いに疑っているので。
親愛なるマドモアゼル、このような言葉を直接書くことをお許しください。そして、私の非常に深い愛情に満ちた賞賛を、どうか信じていただきますよう。
イダ・ゴトコフスキー

この書簡は、ブーランジェがゴトコフスキーとその家族に対して、作曲家でありナディアの最愛の姉であるリリ・ブーランジェの追悼式(おそらくコンサート)に何度も招待していたことを示すものである。これらは1960年代半ばにトリニテ大聖堂で定期的に開催された。

ゴトコフスキーは、パリ音楽院での他の教師たちの影響も認めている。「私はトニー・オーバン、ノエル・ギャロン、ジョルジュ・ユゴン(3人はポール・デュカスの弟子)の生徒で、音楽芸術の理想的統合である"フランス楽派"に属しています」と、自身の流派について述べている。しかし、「私にはたくさんの師匠がいるので、特定の一人を私の師匠だと決めつけることはできません。」とも述べている。この発言は1979年のもので、ゴトコフスキーがキャリアの中盤に移行する中で、フランス音楽の伝統を受け入れていることを示している。この時期、フランス人としてのアイデンティティと美意識は、国際的な評価を得るための財産となった。

ゴトコフスキーは、その長いキャリアを通じて、作曲家として世界各地を訪れた。1970年代半ばから1990年代半ばにかけての最も忙しい時期には、マスコミはしばしば彼女を「フランス音楽大使」などと呼んだ。スペイン(1966年)、オランダ(1981年、世界音楽コンクール)、ソ連(1984年、モスクワ音楽祭)、米国(1978年、1983年)などで公演を行っている。最初のアメリカツアーは、おそらく彼女の最も有名な管楽器のための作品である「Poem du feu」の世界初演を中心としたものであった。この作品は、マックス・マッキーと南オレゴン大学バンドの委嘱によるもので、1978年のCBDNA北西部大会で作曲家が臨席の下、初演された。1978年のツアー中、ゴトコフスキーはノーステキサス大学のレジデンス講師も務めた。2度目のアメリカツアー(1983年)では、ミシガン州立大学のアーティスト・イン・レジデンスとして、フレデリック・フェネルと共同作業を行った。

フェネルは、1994年に東京佼成ウィンドオーケストラと録音したゴトコフスキーの「管弦楽のための協奏曲」(フェネルはこれを「吹奏楽のレパートリーへの真の貢献」と呼んだ)を中心に、早くからゴトコフスキーを高く評価した。この間、ゴトコフスキーの作品をプログラムし、録音した重要な管楽器指揮者には、ノルベール・ノジ、ジョン・R・ブルジョア大佐がいる。ノジ(ゴトコフスキーのことを「ヨーロッパで最も著名な作曲家の一人」と称する)は、彼の率いるベルギー・ギィデ交響吹奏楽団とともに、彼女の吹奏楽作品のみを収録したアルバムを4枚も制作している。 また、「The Presidents Own's」ことアメリカ海兵隊バンドの指揮者であるブルジョワは、1984年と1986年に彼女の「吹奏楽のための交響曲」を演奏している。

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ゴトコフスキー(中)とブルジョワ大佐(右)の写真