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2025/05/31

Musica et Memoria掲載のアルフレッド・デザンクロの経歴

デザンクロの出生の地であるル・ポルテルの、歴史研究会の編集による、アルフレッド・デザンクロの生涯を記した素晴らしい資料が公開されていた。「晩年」におけるパリでの活動についての記述は控えめながら、デザンクロがどのように音楽的キャリアを発展させてきたか、その初期の詳細な記述や、家族との詳細な関わりについて、これ以上ないほどに詳細に語られており、一読の価値がある資料である。

http://www.musimem.com/Desenclos_Alfred.htm

内容理解の補助のために、地理関係を示した地図を張り付けておく。ル・ポルテルは、ブーローニュ=シュル=メールの隣町、ルーベ音楽院のあるルーベは、リールの隣町である。おおよその位置関係がわかると思う。家系図をざっと書き下ろしたテキストのキャプチャも、冒頭の家族関係を読み下す助けとなるだろう。


以下、諸々のツールを使いながら翻訳・構成を行った。一点非常に気になったのが…ジョルジュ・グルデ『Les compositeurs d'aujourd'hui』なる資料の存在は、これまでに把握しておらず、検索もしてみたが見つからなかった。ミュール・カルテットのスポークスマンとして名を馳せたグルデなら、こういった類の書籍を著しても不自然ではないが、そもそも商用発売されていたのかどうかも不明。存在するなら読んでみたいものだ。

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アルフレッド・デザンクロは1912年2月7日、パ・ド・カレー県のル・ポルテルにて、10人きょうだいの7番目として生まれた。出生届は父アルマン・デザンクロが役所に提出したが、当時は商業従事者と申告していた。実際には、戸籍の手続きには慣れていたはずのアルマンであったが、感情が高ぶっていたのか、本来家族が決めていた「アルフレッド」ではなく、「アルベール・フェルディナン・ジョルジュ」と誤って届け出た。しかし本人は生涯を通して「アルフレッド」と名乗り続けた。宣誓書を受けとったのはセゼール・グルネー市長で、証人として署名したのは、いずれもル・ポルテル在住で地元では知られた存在、75歳の金利生活者フランソワ・モンティニーと、39歳の実業家ジョルジュ・ルジエであった。

デザンクロ家はすでに長くル・ポルテルの歴史に名を刻んでいた。アルフレッドの高祖父ジャン=ルイ・フランソワは、18世紀にニングルで生まれ、ル・ポルテルで粉挽き職人として働いていた。その息子ジャン=フランソワ・フィリベールも父と同じく粉挽きであり、ジャン=フランソワとマリー=フランソワーズ・ブルガンの娘であるマリー=ルイーズ・リベールと結婚した。フィリベールの息子オーギュスタン・アルマンは、製粉業を離れル・ポルテルでビール醸造業を始め、ルイーズ=マリー・イザベル・グルネーと結婚した。その息子アルマンと孫のアルフレッドは、リベール家、ブルガン家、グルネー家、コパン家、ルデ家の血を引いていた。当時のル・ポルテルの住民の半分と、アルマンやアルフレッドは何らかの形で親戚関係にあったと考えられる。

この時から、歴史の風向きが変わり始めたのである。オーギュスタン・アルマンとルイーズ・グルネーは5人の子をもうけたが、いずれも40歳を少し過ぎた頃に早世した。アルマンは若くして家長となり、父のビール醸造所を引き継がず(維持できなかった、あるいは維持する気がなかった)、教育の道に入り、私立学校の教師・校長として働いた。ル・ポルテルの墓地近くの学校や、デヴルのサン=ニコラ寄宿学校、さらにノール県ラノワなどで教鞭を執った。彼の姉妹ブランシュとルイーズもサメールの女子校で教員を務めた後、アブヴィルの聖ヨゼフ修道会に入った。アルフレッドの母であるマリー・ウィルスは、ブローニュ出身で、彼女の両親はオートヴィル広場にてパン屋を営んでいた。彼女もまた大家族の出身だった。

アルフレッドは、ル・ポルテルまたはデヴルで初等教育を終えた後、アフランガン学院の寄宿生となったが、中学3年の終わりには10人兄弟という家計の事情から進学を断念せざるを得なかった。幸いにも、彼は絵の才能に恵まれており、家族が住んでいたラノワで、布地のデザイナーの下で「図案作成」の仕事に就いた。同時にルーベ音楽院でピアノ、オルガン、室内楽の授業を受け続けた。彼が16歳のとき、音楽の知識はごく初歩的なものだったと、ルーベ音楽院で上級ピアノを教えていたアルフォンス・スータンは語っている。「ベートーヴェンの《月光ソナタ》第3楽章に彼の指はやや抵抗を示しましたが、私の働きかけで彼を私のクラスに迎えることができました。試験準備の数週間で、私は彼の音楽的な知性に驚かされたのです。」

「これは幸運な決断だった。若きデザンクロは才能あるだけでなく、意志が強く、厳格な師の課す規律を文句も言わずに受け入れる勇気ある生徒であった」と、ジャン・ピアは1966年の『ノール・マタン』紙に書いている。

デザンクロは、アルフォンス・スータンのクラスからフランシス・ブスケのクラスへと移りながら、布地デザイナーとしての仕事も継続しつつ、3年間で次のような成果を挙げた:1931年にソルフェージュで満場一致の一等賞、1932年に音楽史で一等賞、室内楽で準一等賞、ピアノで二等賞、さらに和声で一等賞、オルガンで二等賞を得た。ブスケは後に彼の後任となるが、デザンクロにパリ国立高等音楽院(コンセルヴァトワール)への進学を勧めた。彼は1932年10月、20歳で入学を果たす。しかしその直前、父が亡くなり、母と弟(18歳)、妹アニー(10歳)を残してしまった。アルフレッドは週末ごとにパリからルーベに戻り、9人の生徒にピアノを教えて生活費を稼ぎ、家族を支えた。その後、パリの教会でオルガン奏者の代役を務めたり、日曜日にはノートル=ダム・ド・ロレット教会で聖歌隊指導者として働いた。

このような困難を抱えながらも、彼は目覚ましい成績を修めた。1935年に和声で一等賞(ポール・フォーシェのクラス)、1936年にピアノ伴奏で準一等賞、1937年にフーガで二等賞(シモーヌ・プレ=コーソードのクラス)、1941年に作曲で二等賞を獲得した。1938年にはローマ賞の一次選考(「ロージュ」)にも進出していた。「3週間で三人の登場人物による一幕のカンタータを作曲せよ」という課題で、デザンクロの作品は審査員たちに高く評価され、最優秀賞候補にもなったが、最終的には他の候補者が選ばれた。彼がローマ大賞(作曲部門)を獲得したのは、1942年、アンリ・ビュッセのクラスでのことだった。受賞作品は《Pygmalion délivré》。戦争中だったため、例年のようなローマ滞在は叶わず、1946年になってようやく2ヶ月間滞在することができた。[*1]

その間、ルーベ音楽院は彼に校長の職を申し出た。彼は1943年から1950年までその職にとどまった。この時期については、二つの種類の証言が残っている。公式なものは、彼の生まれ持った芸術家・音楽家としての才能や、ひたむきな努力に言及している。「飽くことのない勤勉さ、粘り強さ……」と簡潔に語る人もいる。一方で、彼を知る者たちは口を揃えて語る。7年間にわたり彼が音楽活動を著しく活性化させ、多くの困難にもかかわらず多くのコンサートを開催し、パリから音楽家を招いたこと、合唱活動を奨励したことを。当時ルーベにいた人々は、サン・マルタン教会で行われた《ヨハネ受難曲》が巻き起こした熱狂を今でも覚えている。

しかし、私たちは若き日のアルフレッド・デザンクロの、もっと親密で家庭的な一面を紹介せずにはいられない。彼がルーベにいた初期の頃、それはちょうどブローニュ地方、特にル・ポルテルにとって困難な時代だった。彼の姪の一人は、家族とともに彼(または彼の近所)に避難したことを覚えている。彼女はその時期を、温かく、若々しい熱意に満ちた筆致でこう回想している:「おじは、皮肉めいた、時にブラックなユーモアを持っていました。ルーベの彼の机には、見事な髑髏が置いてありました。彼の家から音楽院へと通じる廊下を横切るとき、その髑髏が怖くて仕方なかった…彼は驚くほど質素な人でした。彼が真剣な顔をするのは、指揮棒を振って最初の音が鳴ったときだけ…。ドイツ軍のせいで家を離れなければならず、結果としてデザンクロ家に身を寄せることができたのは(特に私にとっては)幸運でした。私はしょっちゅう彼らの家にいて、すべての演奏会に行っていました。彼の指揮中、どうしても落ち着かない金髪の束が、情熱や時に激しさ、時には優しさと共に舞い上がるのを思い出します…。彼がドビュッシーの曲や、自作の《小さなネコ》や《荒れ狂う海》など、私たちのためだけに演奏してくれたことも…。あるとき、室内楽の演奏会のために両親に部屋を貸してくれと頼まれました。私たちの家の大きな板張りのサロンは音響が素晴らしかった…。おじと一緒にリールやルーベの街を歩くのは、誇らしく、名誉なことでした!…ある日、レッスンのあとに彼が私たちを家まで送ってくれたとき、大雪が降っていて、私たちは雪合戦をしたのです。あのときのことは今でも忘れられません…彼はとても皮肉屋で、私を赤面させては、それを見て大笑いしていました。」

だが、良き時は永遠には続かない。戦争が終わると、1950年、アルフレッド・デザンクロは個人的な事情で辞職し、パリへと移った。彼はそこで、生活のためであることも多かったが、純粋に楽しみのためにも、驚くべき活動を展開する。さまざまな楽譜出版社に協力し、レッスンを行い、ラジオ、そしてテレビにも出演した(ジャン=ポール・カレール監督、ロワ・マッソン作『クリストバル・ド・ルーゴ』など)。テレビや映画の音楽も作曲した。エコール・ノルマル音楽院で教鞭をとり、パリ音楽院では対位法とフーガを教えた。

1956年には、彼の《交響曲》がパリ市大賞を受賞し、コンセール・コロンヌにより演奏された。1959年にはエディション・デュランの音楽顧問に就任。1967年にはパリ音楽院の和声教授に任命された。しかし、その20年にわたる職歴を概観しても、アルフレッド・デザンクロの真の活動、あるいは本当の天職はやはり作曲だったのではないか、という印象を受ける。

作曲という分野において、(この原稿を書いている)ル・ポルテル歴史研究会のメンバーには、デザンクロの作品を批評的に分析できる専門家はいない。ただ、彼自身が評論家の仕事を容易にはしなかったことも確かである。彼に「いつから作曲を始めましたか?」と尋ねると、必ず「ローマ賞を取ってからです」と答えたという。これは、極めて自力で成し遂げた人の答えかもしれない。ジョルジュ・グルデ『Les compositeurs d'aujourd'hui』はこう結論づけている:「彼は、学業中やそれ以前に書いたものはすべて『習作』とみなしていたということだ。これは、稀有な謙虚さと、厳格な自分への要求を物語っている。謙虚さと自己要求の強さは、彼の性格の本質をなしている。だからこそ、彼は多作な作曲家ではなく、むしろ洗練された完璧主義者の作曲家となった。彼は完成された作品を好み、『職人』と名乗ることを誇りとしていた。しかしまた、単なる知的作業や技術の積み重ねではなく、『インスピレーションの必然性』を信じていた。」さらにこう続く:「彼の謙虚さは、ある人々には過剰とも映ったが、それは厳格な職業倫理によって裏打ちされており、彼を良心的で、丁寧で、洗練された完璧主義の作曲家たらしめた。」

そして、こう書かれている:「彼の作品すべてには、彼の性格、すなわち優しさ、理想主義、義務感、情熱がにじみ出ている。」

ロベール・ベルナールはその著書『音楽の歴史』の中で、アルフレッド・デザンクロが敬意を込めて仕えていた偉大な作曲家たちの影響について、控えめながら言及している。それは、バッハはもちろんのこと、とりわけフォーレ、ラヴェル、そしてドビュッシー(特にドビュッシー!)であった。そしてベルナールは、デザンクロの本質的な資質を次のように評価している。

「彼の音楽言語の抑揚は非常にしなやかで、表現の多様性に富み、純粋に音楽的な領域を逸脱することなく、論理的に調和された感情の状態を想起させる力を持っている。」

「《Poème romantique》は、非常に精巧なオーケストレーションで書かれており、暖かく、調和のとれた持続的な色彩を帯び、ドビュッシー風の繊細さを秘めている。一方、彼の《交響曲》は、より対照的で力強い表現を持つ。伝統的な交響曲の形式に固執することなく、素材に即して形を創造し、内在的かつ独自の発展論理により構成した。彼は、生命力と安定感、均衡を備えた作品を創り出し、それは少なくとも深い敬意に値するものである。」

「デザンクロは、ある種の非常に優れた音楽家の典型であり、強烈な個性を欠くという理由で、単純に否定したがる人もいる。彼の音楽観は、私たち自身の観念を一新するわけではないし、何か破壊的な要素をもたらすわけでもない。」

もっと簡潔に言えば、ジョルジュ・グルデの『Les compositeurs d'aujourd'hui』における記述はこう締めくくられている:

「アルフレッド・デザンクロは、現代フランスを代表する作曲家の一人であり、時流に乗るためだけに複雑な音楽語法を用いるようなことはしなかった。彼の作品はすべて誠実である。その創造は非常に豊かで独創的でありながら、自然なものだ。彼の《レクイエム・ミサ》に見られるような気高さと偉大さは、他の現代作品にはめったに見出せないものである。」[*2]

実際のところ、デザンクロ家には、芸術と音楽の精神が満ちあふれていた。モンマルトルの丘のすぐ近くにある彼らの控えめで心地よい小さなサロンには、エラール社のQuart de queueピアノが置かれていた。隣の部屋からはヴァイオリンの音が聞こえる。デザンクロ夫人[*3]は、最初は少し驚いた様子で私たちを迎えてくれたが、やがて不安そうになり、最後にはとても温かく親切に対応してくださった。彼女自身はオペラ歌手の娘である。彼らの息子フレデリックは1961年生まれ。パリのアンリ4世高校でバカロレアを取得しながら、サン=モール音楽院でガストン・リテーズに師事し、その後パリ音楽院で和声、ソルフェージュ、対位法を学んだ。彼は、パリのノートル=ダム・デ・ヴィクトワール教会の共同オルガニストであり、贖い主ルーテル教会の専属オルガニストでもあり、シュレンヌとアングレームでオルガンの教授を務めている[*4]。娘のエリザベートは1966年7月生まれのヴァイオリニストで、サン=モール音楽院で音楽教育を受けた後、パリ音楽院に入学した。彼らの友人たちも、元生徒であることが多く、特に北フランス出身者が多い。作曲家ジョルジュ・ドルリューやピエール・イェンセン、アラス音楽院の校長ロベール・デルクロワなど。また、両方ともピアニストのエツィグ夫妻の話も聞いた。夫人のエツィグは、アンネット・ブルガン=モンティニーという旧姓で、ル・ポルテル出身である。

私たちの会話の中で、「人生というものは、分かち合うよりも隔てることのほうが多く、デザンクロ家がル・ポルテルとのつながりをあまり持たなかったのは残念です」と私が言ったとき、私は当然のごとく「郷に入らずんば郷に従え」といった答えが返ってくると思っていた。だが、デザンクロ夫人はこう答えた:「そんなことはありません。私の夫から聞いた話ですが、若い頃はよく実家に帰っていたそうですし、姪たちもお話していたのでは?私たち自身も、夫の親族や親しい友人を訪ねて、8月15日によくル・ポルテルへ行っていました。子供たちが生まれた後も、何度かル・ポルテルで休暇を過ごしました。墓地の近くのタルディ夫人宅に滞在していました。」

「そして、ご主人が亡くなったとき、あなたの教区での宗教葬のあとはどうしたんですか…?」

「私は彼をル・ポルテルの家族墓に埋葬しました。彼はよく故郷の話をしていました。それが自然だったのです。他の方法など考えもしませんでした。」

すべてが、美しく語られていた。

マリー=イザベル・ロベール(『ル・ポルテル:ノートと資料』1987年7月号より)
(※2002年に「ル・ポルテル歴史研究会」会長エヴラール氏の許可を得て)
(オンライン公開:2023年12月)

 Musimemによる注釈

[1]:この時期について若干の補足をしておく必要があります。ローマのヴィラ・メディチは、1940年6月22日にイタリア政府によって接収されました。1941年11月8日には、ローマ賞受賞者の滞在先がニースのヴィラ・パラディーゾに移され、新たな館長として、1914年のローマ賞受賞画家ロベール・プジェオン(1886–1955)が任命され、ジャック・イベールの後任となりました。1944年3月、フランス・アカデミーはニースを離れ、フォンテーヌブロー城に移転し、5月末に滞在者が到着しました。アカデミーはその後、1946年3月13日までそこに滞在し、以後ローマに戻りました。その間、プジェオンは1944年9月に解任され、ジャック・イベールが館長として復帰しました。アルフレッド・デザンクロについて補足すると、彼は1943年1月1日付で滞在者となり、翌月ヴィラ・パラディーゾに到着。その後、1946年3月にローマへ移動し、同年4月30日までの2か月間滞在しました。

[*2]:《レクイエム・ミサ》について:このレクイエム・ミサは、ソリスト、4声混声合唱、オーケストラ、オルガンのための作品で(デュラン社、1967年出版)、1962年に作曲され、1965年10月10日にパリでルネ・アリックスの指揮により初演されました。作曲者自身によってオルガン伴奏版に編曲されており、その版は1997年に録音されました(合唱団「レ・ゼレマン」と、フレデリック・デザンクロがオルガン、指揮はジョエル・シュビエット。CD Hortus 009)。同時に収録されたのは、無伴奏混声4声のためのモテット《サルヴェ・レジーナ》と《ノス・アウテム》(いずれも1958年作曲、1972年にデュラン社より出版)です。

[*3]:ニコル・クリストフについて:ニコル・クリストフ(1934年パリ生 – 2019年シュシー=アン=ブリー没)は、ピエール・クリストフ(1905年パリ生 – 1986年マルセイユ没)の娘。ピエールは女優ジャンヌ・クリストフ(芸名「ジェーン・ダンジュ」:1885年ソミュール生 – 1926年パリ没)の息子であり、母はジャクリーヌ・クルタン(1912年ル・アーヴル生 – 1995年ベティシー=サン=ピエール没)。ジャクリーヌはソプラノ歌手で、1933年にオペラ部門で一等賞、オペラ・コミック部門で二等賞を獲得(サリニャックのクラス)。1934年にパレ・ガルニエ(パリ・オペラ座)に入団し、1951年9月まで所属。その後も地方都市やヨーロッパ、北アフリカを巡業し、1961年に引退。代表的な役は、《ミニョン》、《ウェルテル》、《ボリス・ゴドゥノフ》、《ファウストの劫罰》、《薔薇の騎士》、《ドン・ジョヴァンニ》、《魔笛》など。

[4]:フレデリック・デザンクロについての補足(1987年執筆時以降):彼はまた、リュエイユ=マルメゾン音楽院(チェンバロと室内楽)およびブローニュ=シュル=セーヌ音楽院(アンドレ・イソワールに師事してオルガン)でも学びました。これまでに、ヴェルサイユ、ヴィリー=シャティヨン、オルセー、オルレアンの各音楽院でも教鞭をとっています。現在(2023年時点)は、ヴェルサイユ宮殿の礼拝堂専属オルガニストであり、ヴェルサイユ・バロック音楽センターの音楽顧問でもあります。1999年には、小規模編成によるフランスのモテットを専門に演奏するアンサンブル「ピエール・ロベール合奏団」を創設し、指揮を務めています。

2023/07/09

Robert Planelのローマ大賞作品

作曲家ロベール・プラネルは、1933年にローマ大賞を受賞している。ローマ大賞は、コンクールの中で指定されたテキストをベースに、参加者が多声部・オーケストラを付与することによって作品を作り上げ、その出来を競う、という形で争われる。ちなみにこの年の次席は、ピアニストとしても有名なアンリット・ピュイグ=ロジェであった。

その、プラネルの作品について、おなじみMusica et Memoriaの中に興味深い記述があった。

http://www.musimem.com/prix-rome-1930-1939.htm#planel

カンタータ「イディル・ファンビュレスク Idylle funambulesque」によって、この若き音楽家は、芸術音楽にジャズを導入し、またサクソフォンの特殊な音色を取り入れた。

少し探してみたが、残念ながら、音を見つけることはできなかった。しかし、1908年生まれのプラネルがその音楽的キャリアの極めて初期からサクソフォンやジャズを知る…どころか存分に活用し、芸術作品の域へと昇華していたという事実を示すものだろう。

以下は、1941年に撮影されたプラネルの写真とのこと。


2022/12/25

ロジェ・カルメルのバイオグラフィ

ロジェ・カルメルの公式サイトに載っていたバイオグラフィを翻訳してみた。

http://www.rogercalmel.com/

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ラングドック地方のクリサンで生まれたロジェ・カルメルは、ベジエ地方で最初の音楽教育を受けた。1944年、パリに行き、セザール・フランク音楽院で作曲を学んだ後、パリ音楽院に入学し、オリヴィエ・メシアン(美学)とダリウス・ミヨー(作曲)のクラスを受講した。その後、Studio d'Essais de la Radioにて、ピエール・シェーファーの下で研鑽を積んだ。

1958年サクソフォーン四重奏とオーケストラのための「コンチェルト・グロッソ」でパリ市第一位、1959年フランス国家勲章第一位、1960年ディボンヌ国際作曲コンクール大賞、ゴセック賞、1976年フランス学士院室内楽大賞など、重要な賞を受けている。この頃、ロジェ・カルメルは、多声や調性を否定しない独自の語法によって、彼自身の音楽的個性を強く主張するようになる。

1963年、RTFの教授に任命され、1979年から1991年まで、パリ14区にあるダリウス・ミヨー音楽院で教鞭をとった。1991年から1998年まで、パリ市立音楽院の審査員を務める。こうした教育的な活動が影響し、1980年代以降、「A Cœur Joie」運動やさまざまな音楽祭、合唱団の依頼で、多くの声楽作品を書くことに活動の大部分を割くようになった。このことは、作曲語法の変化のきっかけとなり、多声を、独自の手法で注意深く扱うような清冽な作品が数多く生まれた。

多くの現代作曲家がそうであるように、ロジェ・カルメルのアプローチは常に「よりシンプルであることを志向する」傾向を持っているのだ。

2022/12/21

INA Archiveに存在するシュミットの録音

FlorentSchmitt.comに、面白いリストが掲載されていた。どのように整理したかわからないが、フランス国立音声・映像アーカイブこと"INA"に存在しているシュミット関連の録音のリストを見ることができる。

https://florentschmitt.com/florent-schmitt-listing-of-broadcast-performances-of-compositions-housed-at-the-ina-archives-french-national-radiotelevision/

サクソフォンに関係するものは、以下の4つ。カッコ内は放送年であろう。

Légende, Op. 66; David Vincent, saxophone (1997)
Quartet for Saxophones, Op. 102; Quatuor Piacere (1983)
Quartet for Saxophones, Op. 102; Quatuor Ars Gallica (1986)
Saxophone Quartet, Op. 102; Quatuor Marcel Mule (1955)

2022/10/30

ロンデックスのジャン・リヴィエ評伝

ロンデックスが、ジャン・リヴィエについて論じた短い文章。「Le Saxophone No.32(1988-April)」より。

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1896年7月21日、ヴィルモンブル(セーヌ=サン=ドニ県)に生まれたジャン・リヴィエは、1987年11月5日にラ・ペンヌ=シュル=ユヴォーヌ(ブーシュ=デュ=ローヌ県)で死去した。第一次世界大戦中に毒ガスにさらされたが生き延び、1922年、パリ国立高等音楽院に入学し、ジャン・ガロン(和声)、ジョルジュ・カッサード(フーガと対位法)、モーリス・エマニュエル(音楽史)に師事。また、ピアノをブローに、チェロをポール・バゼレールに師事し、その後この楽器のために「オーケストラとのラプソディ(1927)」を作曲し、室内楽にも興味を持つようになった(4つの弦楽四重奏とトリオ、4本のサクソフォンのための「グラーヴェとプレスト」など)。彼の初期の作品には、鋭いエッジ、明確な音響建築のセンス、簡潔さへの著しい嗜好、しばしば「アール・グラヴュール」と呼ばれるスタイルが見受けられます。

1936年から1940年にかけて、ジャン・リヴィエはピエール・オクターヴ・フェローやアンリ・バローとともに「トリトン・グループ」に参加し、活躍した。1947年、パリ国立高等音楽院で作曲を教え、最初はダリウス・ミヨーと交互に、その後1962年から1966年までは単独で教鞭を執った。

彼の作品目録には、交響曲7曲(1932年から1961年)、ヴィオラ(1935年)、ヴァイオリン(1942年)、ピアノ(1953年)、サクソフォーンとトランペット(1955年)、クラリネット(1958年)、ファゴット(1963年)、金管とティンパニ(1963年)、オーボエ(1966年)などのための協奏曲8曲をはじめ、約100の交響曲、室内楽、合唱曲が含まれている。

1940年以前から、ジャン・リヴィエは、抽象的な言語の探求よりも、むしろ音楽表現を優先するという、当時はまだあまり普及していなかったロマン派の傾向を代表していた。ユーモアのセンスがあれば(『ヴェニチエンヌ』やサクソフォン協奏曲のフィナーレ)、最も説得力のあるシンプルさを実現できるのだ。

品質、厳格さ、心、感性を備えた彼は、実際「伝統的な形式に忠実であり」「想像力豊かで、フランスならではの視覚的な」(これは特に戦間期の作品に顕著)な人物であり、強い意味での自立者でもある。

若い頃、マスタード・ガスにやられたジャン・リヴィエは、生涯を通して健康状態がよくなかった。極限状態、つまり死という永遠の危機について、その精神的な体験を、人に伝えることを可能にする…しかも、音楽によって…そのレベルに成熟するまでは非常に時間がかかった。まず1953年の「レクイエム」で、次に1967年の「クリストゥス・レックス」で、彼は卓越した筆力と最高の表現力で、地上生活を超えた、人間の形而上的運命への信仰を表現している。

ベルナール・ガヴォティとダニエル・レザーによれば、「ジャン・リヴィエはとても親切で、とても控えめで、5分もすれば20年来の友人と接しているのかと思うほど歓迎してくれる」そうだ。音楽家がシステムを持っているのと同じように、彼には先入観がない。世界的な偉人であると同時に、誠実な友人でもある。音楽家としては、まるで建築家のようなスタイルを取った。ありきたりなものとセンセーショナルなものの両方を避けるのが、リヴィエの選んだ道であるように思う。



2022/10/10

一柳慧とサクソフォン

作曲家の一柳慧氏の訃報。サクソフォンへの直接的な関わりは多くはないが、楽器編成を限定しない「プラティヤハラ・イベント」に、サクソフォンが参加した実演に触れたことがある。

調べてみると「Trichotomy」というアルトサクソフォン、ピアノ、打楽器のための作品を、野田燎氏のために作曲している。インターネット上の情報からは全くその作品に関する情報をたどることができない。初演された演奏会についての情報は見つけることができたが、いったいどのような作品なのか、聴いてみたい。

https://www.shodo.co.jp/nankoku/report/vol-16/

そういえば、武満徹「一柳慧のためのブルー・オーロラ」のことを、一柳慧氏の名を冠する作品(ブルー・オーロラSQが取り上げている)として反射的に思い出す。



2022/08/27

Le Monde紙のクロード・パスカル追悼記事(2017年)

2017年3月7日付、Le Monde紙上に掲載されたクロード・パスカルの追悼記事である。パスカルの、フランス音楽史の語り部としての側面を強調するかのような内容で、興味深い。


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2月28日、作曲家クロード・パスカルがパリのラリボワジエール病院で死去した。96歳であった。彼の死によって、ローマ賞時代の最後の生き残りがいなくなり、そして何より、ウィットと同様、正しく保たれた時代の記憶が消えてしまったのだ。フランスの偉大な伝統である、緻密な職人気質のクリエイターの一人であった彼は、単なる目撃者としてではなく、自身の音楽人生を、まるで本を開くように語ってくれたものだ。

1921年2月19日、パリで、決して裕福ではないが「音楽とは何かについて非常にハイレベルな考えを持っていた」家庭に生まれたクロード・パスカルは、1931年11月30日にパリ・コンセルヴァトワールに入学し、学年末に一等賞を獲得している。ピアノではあまり成功せず、1935年に二等賞を獲得したのみである。翌年には和声に目を向け、「la clef de voûte du système」のジャン・ギャロンに師事した。1939年(和声)、1940年(ノエル・ギャロンのクラスの対位法とフーガ)、1943年(アンリ・ビュッセルのクラスの作曲法)と、3度にわたって一等賞を獲得したのである。

ヴィラ・メディチの住人:
視覚だけでなく聴覚にも才能のある学生だったクロード・パスカルは、重要な経験を思い起こすことで、それぞれの教師の肖像を描くことができたのだろう。ある日、彼は午後2時にアンリ・ビュッセルの教室に行き、自作のメロディを提出したが、2時間後に自分の楽譜について一言も話すことができないまま帰ることとなった。先生は2時間、「長く息をすることさえ許されない」状態で話をしたのである。1941年に一等賞を受賞して退官した音楽史のクラスを教えていたルイ・ラロワについて、クロード・パスカルは、言語学者としての資質を強調し、歴史的事実(ラロワはモデスト・ムソルグスキーのオペラ『ボリス・ゴドゥノフ』のフランス語訳を制作した)や家庭での観察(教授の部屋の1つには「すべて中国語の本が並んでいた」)によってそれを裏付けている。

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1947年のクロード・パスカルの写真。26歳前後、ということになる。



2022/08/16

フレデリック・デザンクロへのインタビュー

指揮者のHervé Niquetが、アルフレッド・デザンクロの「レクイエム」を録音した際、Stefan Grondelaersとともに、フレデリック・デザンクロ(アルフレッド・デザンクロの息子、オルガニスト)へインタビューした模様を翻訳。

父(アルフレッド)について、「レクイエム」について、自身の経験も交えつつ語っており、極めて興味深い内容だ。

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ーーーあなたのお父様はご自身を「ロマンティック」だと表現していました。それは性格についてでしょうか、それとも作曲する音楽についてでしょうか?

フレデリック・デザンクロ:特に音楽についてです。父はドビュッシーやラヴェルを絶対的に崇拝しており、自らを彼らの後継者の一人と考えていました。そして、ブーレーズのモダニズムに対抗するために、「ロマンティック」という言葉を使い、自らをその陣営に位置づけていたのです。戦後まもなく、この両陣営の対立が顕著になりました。ブーレーズは音楽界の権威を味方につけ、自分のセリエリズムにおける野心を推し進めることに成功しましたが、一方でそのことは、「ロマンティック」な作曲家のキャリアが抑制された、と言っても良いでしょう…そう、私の父のように、です。アルフレッド・デサンクロがはっきりと自分の意見を述べたという証拠はたくさんあります。私は1956年の新聞の切り抜きを保存しているのですが、その中で父は、自分は"20世紀の子"であって、革命家ではない、と力強く述べています。「私にとって、音楽は感情であり、感情を拡げるものでなければならない。作曲するとき、私は音楽がどうあるべきかという既成の定義を持たない」。私が小さい頃、サル・プレイエルで「レクイエム」の演奏を聴いた時、プログラムノートの冒頭には、「このレクイエムは、典礼の伝統に深い敬意を払って書かれたものであり、演劇的な効果は徹底的に排除されている。オーケストレーションにあたり耳障りな楽器は入れておらず、ラテン語によく合う古代の手法に従って処理されている」と書かれていました。さらにプログラムノートには、「現在の"美学"とは断固として距離を置く」とも書かれており、父は「音楽は知的なものに留まらず、それを超えて感情を伝えるべきもの」と固く信じていたのです。さて、この音楽に対する「ロマンティック」な姿勢は、父のおおらかでオープンな性格と同時に、謙虚な姿勢とも重なります。ラヴェルの後を継ぐことを熱望しながらも、巨人であったラヴェルに対し、自身のことは取るに足らない人物であったと感じていたのです。

ーーーお父様のレクイエムが作曲された具体的なきっかけをご存知ですか?

フレデリック・デザンクロ:「レクイエム」は1956年6月の新聞記事ですでに発表されていますが、初演されたのは1963年でした。レクイエムは、明らかに長期にわたるプロジェクトで、そういった意味から、きっかけのような特別な理由があったとは考えにくいですね。

ーーーあなたはオルガニストとして「レクイエム」を録音していますね。あなたにとって、それはどのような意味を持つのでしょうか。

フレデリック・デザンクロ:極めて魅力的で、深い感動を得た経験でした。レクイエムはもともとオーケストラのために構想され、書かれたもので、オルガンのリダクションを演奏した人はそれまでいなかったと思います。また、父はオルガン独奏のための曲を書いたことがありません。ある日突然、私のもとにミステリアスな形で招待が届いたのです。ある晴れた朝のことです。トゥールーズの首席オルガニスト、ミシェル・ブーヴァールから電話がかかってきました。「指揮者のジョエル・スービエットが、自分の合唱団のレベルを上げるために音楽を録音したいそうで、レクイエムなどの古い楽譜に目をつけた。その企画でオルガンを弾いてくれないだろうか?」というのです。曲の詳細を聴いて初めて分かったのですが、そのレクイエムが私の父のものだったのです。いずれにせよ、スービエット氏の録音は、それまでやや狭い世界でしか知られていなかったこの作品の人気を高めることになりました。デサンクロの「レクイエム」は、アマチュアの上級合唱団のレパートリーにもなりつつあるようです。技術的には、最初に受ける印象より難しい作品ですが、私にとっては、完璧に演奏されることよりも、演奏されることが重要なのです。

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フレデリック・デザンクロの写真。上記インタビューでも触れられているHORTUS盤(アルフレッド・デザンクロ「レクイエム」所収)が有名だが、どちらかといえば彼の演奏盤はALPHAレーベルに多く見られる。

2022/08/06

ガロンの和声学クラスの写真

BnFの所蔵資料に、ガロンの和声学クラス(1929~1930年)の集合写真を見つけた。デザンクロが写っているらしい(が、…どれだろうか)。

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2022/07/23

メシアン、オネゲル、デザンクロ

オネゲルの著書「Ju suis compositeur」の中に、メシアンの作品をめぐっての、デザンクロが登場する短いインタビューの一節がある。デザンクロと直接関係するわけではなく、メシアンの音楽に関する記述だが、ちょっと面白かったので翻訳してみた。

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(…略)しかし、メシアンの作曲法は非常に緻密である。

私たちは、彼が完全四分音符と補数四分音符の和音で構成された”カスケード"を好んでいることを知っている。また、リズムの複雑さや、エキゾチックなモードと結びついた教会モードの使用に対する彼の好みも理解している。

個人的には、このようなリズムの繊細さに関係するものには懐疑的である。楽譜の上では何の重要性もなく、演奏の上でも気づかれないままであるからだ。

個人的な例を挙げよう。メシアンは、私が肖像画を描いてもらっているときに、「幼子イエスに注ぐ20の眼差し」を演奏しに来てくれた。私はじっと座っていたのだが、当たり前だが即座に反応ができない。そこに同席していたのは、メシアンと同世代の優れた音楽家、アルフレッド・デザンクロだ。私には、ある曲が完璧に澄み切った輝きを放って聴こえた。「なんて澄んでいて、清冽なんだ!」と私は叫んだ。すると、楽譜を見ながら聴いていたデザンクロが、「いや、私はとても複雑で混沌としていると思う」と言い返した。「冗談でしょう!」と私は答えた。と私は答えた。「ほら。自分で見てみろよ」とデサンクロは言った。実は、私が演奏者のリズムの気ままさと思い込んでいたものが、完全に記譜されていることが分かった。価値の半分は、極めて複雑な記譜なのであった。耳は、ある種のルバートで演奏された3拍子のパッセージを知覚していたのに、目で見ると狼狽してしまったのだ。

ーーー私もあなたと同じように、ルバートの記譜は虚構である…と思います。繊細な解釈の持ち主であれば、このパッセージを遅らせたり、早めたりすることができるのに、ルバートの記譜は無駄に手間をかけることになるのです。

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オネゲル近影。

2022/07/09

ジャニーヌ・リュエフについて(MeMより)

Musica et MemoriaのJeanine Rueffにまつわる部分を翻訳。

http://www.musimem.com/prix-rome-1940-1949.htm

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1999年9月22日、マルセル・ビッチュとジェラール・カルヴィは、ジャニーヌ・リュエフを墓地へと送り出した。彼らは、パリ音楽院在学中にジャン・ギャロンの和声クラスでトリオを組んだが、そのきっかけは、相互の高い共感によるものだった。リュエフは、40年近く教えていた国立高等音楽院を数年前に退職していた。

1922年2月5日、パリで生まれた彼女は、クロード・ダルヴァンクールが院長を務めていたパリ音楽院に若くして入学した。この頃、ダルヴァンクールの働きによって、音楽院は広く認知されることになった。例えば、有名なカデット・オーケストラは、パリにおいて最も人気のある楽団の1つになったほどだ。リュエフは、トニー・オーバン、アンリ・シャラン、ジャン/ノエル・ガロン、そしてアンリ・ビュッセルといった巨匠のもとで教育を受け、1948年にはオデット・ガルテンローブに次いで次席を獲得した。2年後、音楽院でマルセル・ミュールのサクソフォン・クラスとユリス・ドゥレクリュスのクラリネット・クラスの公式ピアノ伴奏者となる。これらのクラスは、サクソフォン奏者のジャン=マリー・ロンデックス、クラリネット奏者のミシェル・ポルタルを輩出するなどした。1960年から音楽理論、1977年から和声を教え、1988年に退職した。ジャン=ミシェル・ジャールは彼女の教え子の一人である。また、C.A.E.M.のCentre national de préparationにてソルフェージュ・クラスの教授を務めた。

作曲家としても重要な作品を残した。1945年には早くもピアノ五重奏曲でPrix Favareille-Chailley-Richezを受賞している。この作品は、当時としては極めてモダンなもので、ジャズのテクニックからインスピレーションを受けていると思われる箇所もある。陽気で、ユーモラスでさえあるこの曲は、Lent et Allegro、Lent、Vifの3楽章で構成されている。バストロンボーンのためのConcertstückeは、1999年にゲブウィラーで開催された国際トロンボーン・コンクールの課題曲となった。フルート、バソン、コルネット、トロンボーン、チューバ、コントラバス、チェンバロのための作品、リードトリオのための3曲、サクソフォーンのための四重奏曲、室内オペラ(La Femme d'Enée, 1954)、シンフォニエッタ(1956)、教育的作品も書いている。1997年、L'ensemble Saxallegro(サクソフォン:Hannes Kawrzaとオルガン:Florian Paqitschのデュオ)は、ウジェーヌ・ボザ、ピエール=マックス・デュボア、ジャック・イベールの作品とともにリュエフの「シャンソンとパスピエ」を録音した。

2000年4月、ルデュー・サクソフォン四重奏団はマントンのカルノレス宮でコンサートを開き、リュエフに敬意を表して、ブルターニュの舞曲「パスピエ」を含む6曲からなる「四重奏のためのコンセール」を演奏した。

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向かって左から3番目の女性が、若き日のジャニーヌ・リュエフ。アンリ・ビュッセルの作曲クラスの集合写真である。ちなみに、一番左がGeorges Delerue(サクソフォン作品「Prism」が思い浮かぶが、一般的には映画音楽で有名、アカデミーのオリジナル作曲賞を獲得したこともある)、写真の一番右(ピアノに座っている手前の男性)がJean-Michel Damase(サクソフォン界隈では言わずと知れた…!)だ。

2022/07/01

ゴトコフスキーの音楽的キャリア

引き続き、David Michael Wacyk著「POWERFUL STRUCTURES: THE WIND MUSIC OF IDA GOTKOVSKY IN THEORY AND PRACTICE」より。

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1941年、ゴトコフスキー一家はエッサール・ル・ロワに移住したが、イダは8歳にして才能ある作曲家としての地位を確立した。作曲を志すようになったのは、自分を取り巻く世界から感じたことを表現したいという内面的な葛藤からだった。「夕焼けの向こうに何があるのか、それをどう表現したらいいのか。それを表現できないのは、まさに拷問。それが創作の原動力でした」。確かに、円熟期の作品の作風を見ると、その動機は今も続いているようだ。激情を湛え、連続的に変容していく、ゴトコフスキーの音楽の性質は、表現できないものを表現したいという彼女の願望、ひいては無限への探求を描き出しているのだ。

ピアニスト、作曲家として有望視され、1943年、10歳でパリ音楽院に入学(11歳のときから個人的にピアノを教え始める)。1957年にパリ音楽院を卒業するまでに(ある記者は「マドリード通りの音楽院での非常に長い滞在」とも表現している)、ゴトコフスキーは同音楽院の作曲・文学の一等賞をすべて獲得している。 音楽院在学中は、彼女の作曲スタイルとキャリアに影響を与えた数多くの教師のもとで学んだ。彼女の師匠は次の通りである。オリヴィエ・メシアン Olivier Messiaen、ジョルジュ・ユゴン Georges Hugon(ピアノ、和声、分析)、ノエル・ギャロン Noël Gallon(対位法、フーガ)、アリス・ペリオ Alice Pelliot(ソルフェージュ、聴音)、トニー・オーバン Tony Aubin(作曲)、ナディア・ブーランジェ Nadia Boulanger(作曲)。中でもオリヴィエ・メシアンとナディア・ブーランジェは、ゴトコフスキーに最も大きな影響を与えた教師である。彼女の人生と作曲に与えた影響を考えると、ゴトコフスキーの音楽的な育ちを理解するための基礎として、彼らの指導スタイルの概要を簡単に説明する必要がある。

メシアンは、パリ音楽院では、和声(1941年)、分析(1947年)、作曲(1966年)の教授を務めた。同音楽院で長年にわたって教鞭をとり、多くの若い作曲家が彼の指導を受けることになった。彼の指導法は、生徒の表現の自由を育むものであった。彼は作曲のスタイルを指示することを望まなかったが、弟子たちが彼のスタイル、あるいは作曲家のプロセスの特徴を吸収することは自然なことであった。メシアンの教育スタイルについての調査の中で、ヴァンサン・ベニテスはこう述べている。

メシアンは、自分が信じていることを生徒に強制することはなく、しばしば沈黙を好むことさえあった。それでも、教育を通じて、作曲家として生徒に影響を与えた。彼の教育法は、理想的な作曲家の構成的な見通しを指導するようなものではなく、メシアンその人自身と結びついたものであった。

さらに、ベニテスはこうも語っている。「メシアンは常に生徒の想像力をかき立てようと努めました。その結果、彼らはしばしばクラスの外でアイデアを探求し、議論するようになったのです。」ゴトコフスキーは、メシアンの弟子の多く(ブーレーズ、クセナキス、シュトックハウゼンなど)と同様に、独自の音楽スタイルを持っているが、メシアンは彼女の作曲技法に極めて大きい影響を与えたという。

ナディア・ブーランジェは、第二次世界大戦後、パリ音楽院で教鞭をとっていた。ブーランジェは、メシアンと同様、生徒の個性を伸ばし、その個性が作曲の原動力となるようにすることに関心をもっていた。しかし、ブーランジェは、生徒が自身の作曲のルーツを知っていることを確かめ、しばしば生徒の楽譜を初期の巨匠と比較し、「もっと面白い道を見つけなさい」と促すなど、冷酷な面もあった。ブーランジェは、「私は誰かに独創性を与えることはできないし、それを奪うこともできない。私ができるのは、ただ読み、聴き、見て、理解する自由を与えることだけだ」と述べている。

アメリカの作曲家、ネッド・ロレムは、ブーランジェが自分のクラスで女性を男性よりも高い基準で指導していたと考えている。彼は、「ブーランジェいつも男性の生徒には有利な条件を与え、女性には過大な負担を強いていた」と述べている。このような厳しい目があったにもかかわらず(あるいは、それゆえに)、ゴトコフスキーはブーランジェと永続的な個人的関係を築いたようである。それは、フランス国立図書館に所蔵されている、1957年から1978年までの21年間にゴトコフスキーがブーランジェに送った一連の手紙からも明らかである。これらの手紙は、主に互いの演奏会への招待や出席という形で、彼女たちが互いに賞賛し合っていたことを示す証拠となる(ほぼ全て日常的な内容)。また、ゴトコフスキーの音楽院卒業後も、ブーランジェからのアドバイスやゴトコフスキーの面会の依頼というやり取りが見て取れる。1963年10月に書かれたある手紙は、二人の温かくも堅苦しい生徒と教師の関係を示しており、ゴトコフスキーがブーランジェに対して心を開いていることがわかる(下記書簡の引用を参照)。

マドモアゼル・ナディア・ブーランジェ
バルー通り33番地
パリ9区
親愛なるマドモアゼルへ。
水曜日に「トリニテ」に向けて出発されるとのこと、深く感動しています。どんなに美しく、深い感動を与えてくれることでしょう。親愛なるマドモアゼル、私のことを思ってくださったことに感謝いたします。
土曜日に、私のオーケストラのための「スケルツォが」、コンセール・レフェレンダム・パドルーにて演奏されることをお知らせいたします。
あなたのお時間がいかに貴重であるかを知っているので、聴きに来ていただくようお願いするのは極めて心苦しくもあります。
親愛なるマドモアゼル、あなたの洞察に満ちた慈愛がいかに私の心に響き、喜びで満たされているかをお伝えいたします...私は自分自身を大いに疑っているので。
親愛なるマドモアゼル、このような言葉を直接書くことをお許しください。そして、私の非常に深い愛情に満ちた賞賛を、どうか信じていただきますよう。
イダ・ゴトコフスキー

この書簡は、ブーランジェがゴトコフスキーとその家族に対して、作曲家でありナディアの最愛の姉であるリリ・ブーランジェの追悼式(おそらくコンサート)に何度も招待していたことを示すものである。これらは1960年代半ばにトリニテ大聖堂で定期的に開催された。

ゴトコフスキーは、パリ音楽院での他の教師たちの影響も認めている。「私はトニー・オーバン、ノエル・ギャロン、ジョルジュ・ユゴン(3人はポール・デュカスの弟子)の生徒で、音楽芸術の理想的統合である"フランス楽派"に属しています」と、自身の流派について述べている。しかし、「私にはたくさんの師匠がいるので、特定の一人を私の師匠だと決めつけることはできません。」とも述べている。この発言は1979年のもので、ゴトコフスキーがキャリアの中盤に移行する中で、フランス音楽の伝統を受け入れていることを示している。この時期、フランス人としてのアイデンティティと美意識は、国際的な評価を得るための財産となった。

ゴトコフスキーは、その長いキャリアを通じて、作曲家として世界各地を訪れた。1970年代半ばから1990年代半ばにかけての最も忙しい時期には、マスコミはしばしば彼女を「フランス音楽大使」などと呼んだ。スペイン(1966年)、オランダ(1981年、世界音楽コンクール)、ソ連(1984年、モスクワ音楽祭)、米国(1978年、1983年)などで公演を行っている。最初のアメリカツアーは、おそらく彼女の最も有名な管楽器のための作品である「Poem du feu」の世界初演を中心としたものであった。この作品は、マックス・マッキーと南オレゴン大学バンドの委嘱によるもので、1978年のCBDNA北西部大会で作曲家が臨席の下、初演された。1978年のツアー中、ゴトコフスキーはノーステキサス大学のレジデンス講師も務めた。2度目のアメリカツアー(1983年)では、ミシガン州立大学のアーティスト・イン・レジデンスとして、フレデリック・フェネルと共同作業を行った。

フェネルは、1994年に東京佼成ウィンドオーケストラと録音したゴトコフスキーの「管弦楽のための協奏曲」(フェネルはこれを「吹奏楽のレパートリーへの真の貢献」と呼んだ)を中心に、早くからゴトコフスキーを高く評価した。この間、ゴトコフスキーの作品をプログラムし、録音した重要な管楽器指揮者には、ノルベール・ノジ、ジョン・R・ブルジョア大佐がいる。ノジ(ゴトコフスキーのことを「ヨーロッパで最も著名な作曲家の一人」と称する)は、彼の率いるベルギー・ギィデ交響吹奏楽団とともに、彼女の吹奏楽作品のみを収録したアルバムを4枚も制作している。 また、「The Presidents Own's」ことアメリカ海兵隊バンドの指揮者であるブルジョワは、1984年と1986年に彼女の「吹奏楽のための交響曲」を演奏している。

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ゴトコフスキー(中)とブルジョワ大佐(右)の写真



2022/06/22

木の十字架少年合唱団とデザンクロ

アルフレッド・デザンクロの足跡は、木の十字架少年合唱団 Les Petits Chanteurs A La Croix De Bois とのコラボレーションという形でも残されている。

「Les Gens Du Nord」という同合唱団の商用録音のアルバムには、オーケストレーション担当の名前としてフルネームで"Alfred Desenclos"と記載があり(下記画像)、その他の曲にも同じくアレンジャーの名前として記載を見ることができる(https://www.youtube.com/watch?v=W0Ha4dmN6G4)。


コラボレーションに至ったは不明。オルガン奏者としての活動、教育者としての活動、そのいずれかの結果なのかとは想像している。

2022/06/19

映画音楽とデザンクロ

「Bel Amour(1951)」と、「Le Voile Bleu(1942)」という2つのフランス映画の音楽に、アルフレッド・デザンクロの名前を見つけた。Andre Theurerという、映画音楽の世界でたまに見かける作曲家との合作?としてクレジットされている。下記は、「Le Voile Bleu」のオープニング・クレジット画面のキャプチャだが、A.Theurer指揮、演奏はパリ国立高等音楽院管弦楽団(!)である。

映画音楽は、近代フランス音楽界の作曲家・演奏家の活動の軌跡の宝庫である。映画そのもの+クレジットという形で種々の情報が体系的に残されており、調べていくと意外なほどに貴重な録音に突き当たることもある。ある意味キリがないのだが、宝探し的な面白さもある。



2022/06/18

「ローマ大賞」について

近代フランスの作曲家の経歴を調べていると、必ず出てくる「ローマ大賞」について、関連する項目をMusica et Memoriaより抜粋・翻訳する。

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1666年にLebrunとColbertの共同提唱で設立されたローマ・アカデミー・ド・フランス(ローマ芸術賞)は、設立以来、画家、彫刻家、彫刻家、建築家、作曲家などの受賞者を輩出している。1968年までは、フランス学士院の一部であるアカデミー・デ・ボザールがローマ賞を授与していた。

作曲の場合、30歳以下の受験生は、下記複数回の試験をパスしなければならない。

・予備テスト1:フーガ課題。
・予備テスト2:フーガ課題+ エッセイ試験(決められたテキストに基づき、合唱のための作品を書く)
・本試験:カンタータ試験(決められたテキストに基づいてカンタータを書く。この試験は長い時には1カ月も続いた)

21903年以降、ローマコンクールの模擬試験はコンピエーニュ城で行われたが、フォンテーヌブロー城で開催されたこともある。

コンクール開始当初、ローマ賞の1等賞受賞者は、最長5年間ローマに滞在できるよう招待され、滞在中は年に1つ以上の大作を作ることが課せられた。20世紀初頭以降、1等賞受賞者は2〜3年、メディチ荘に滞在した。年によっては1名以上に2等賞が授与され、「第1番の2等賞」には滞在期間が短縮された滞在機会が与えられた。

賞の順番は、1等賞主席、1等賞次席、2等賞主席、2等賞次席、選外佳作。これらのややこしい名前は、1等賞=グランプリ(またはファーストグランプリ)、2等賞=セカンドグランプリというシンプルなものに置き換えられた。. さらに、1940年代以降、第1等賞次席を授与することはなくなり、1等賞、2等賞主席、2等賞次席、とだけ語る習慣が定着したようである。1960年以降、伝統的な「カンタータ」に代わって「抒情詩(Poème lyrique)」が登場した。

コンクールに対するさまざまな批判を受け、また、1968年5月の平等主義の精神を受け、ローマ賞は、少なくともそれまでの形では廃止されることになった。1971年以来、ヴィラ・メディチに滞在することを許される「寄宿生」は、委員会によって任命される。ローマにあるフランス・アカデミーは、現在、行政的地位、市民的地位、財政的自治権を持つ国立の公的機関であり、アカデミー・デ・ボザールではなく、文化大臣の監督下にある。また、法的には、メディチ荘を拠点としている。
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メディチ荘の風景。1803年にナポレオンが「在ローマ・フランス・アカデミー」を創設し、イタリア・ローマのメディチ荘(メディチ家といえばフィレンツェだが、そのメディチ家の、ローマにおける筆頭とも言える建築物)を拠点としたが、それは、フランス革命で存亡の危機に立たされた研究機関を守るためであった。ナポレオンは、古代とルネサンス期の名作を見て模写する機会をフランスの若い芸術家に与えることを望んだといわれている。


2022/06/15

ゴトコフスキーの両親の意外な経歴

引き続き、David Michael Wacyk著「POWERFUL STRUCTURES: THE WIND MUSIC OF IDA GOTKOVSKY IN THEORY AND PRACTICE」より。

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イダの父、ジャック・ゴトコフスキーは、革命が起きた1917年頃にロシアから移住してきた。一家は家を建てて、アティスモン(パリ南郊)に居を構えた。その後、ジャックは卓越したヴァイオリニストとしての地位を確立し、クリスティーヌ・ジャンヌ・エリアセン(クリスティーヌ・ゴトコフスキー)と出会い、1927年に結婚する。ジャックとクリスティーヌは、第二次世界大戦中、レジスタンスの戦士として活躍、その活動は子供たちにも及び、自宅周辺の野原で撃墜された連合国空軍兵士の居場所を突き止めるのに貢献した。バックマスターレジスタンス(スパイ組織)のメンバーとしての活動により、二人は軍人レジオン・ドヌール勲章を授与された。

イダ=ローズ・エスター・ゴトコフスキーは、1933年8月26日、フランス北部のカレーで生まれた。ゴトコフスキー家には、音楽があふれていた。父親はヴァイオリニスト(特に有名な Quatuor Loewenguth)、母親はピアニスト(イダも)、兄のイヴァール、アレクシス、ブルーノはそれぞれピアノ、チェロ、クラリネットを演奏し、妹のネルは父親を手本に、やがて国際的名声を得て才能あるヴァイオリニストとして活躍していくことになる。イダは「私の子ども時代は音楽に囲まれていました」「父はヴァイオリニストで、私たちにいつもみんなで歌うように勧めてくれました」と振り返る。

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父のジャック・ゴトコフスキーが参加したQuatuor Loewenguthの写真。

2022/06/11

ゴトコフスキーからナディア・ブーランジェへの手紙(2)

引き続き、David Michael Wacyk著「POWERFUL STRUCTURES: THE WIND MUSIC OF IDA GOTKOVSKY IN THEORY AND PRACTICE」より、ゴトコフスキーからナディア・ブーランジェへの手紙の一部を日本語に訳した。同論文に掲載されているのは、これで全てである。

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親愛なるマドモアゼル。

あなたにお会いできることが喜びのすべてだということではなく、あなたがいてくださること、それだけで、私たち姉妹はとても心強く思っています。私の活動については必ずお知らせします。
10月2日に私のオペラを聴きに来てくださるのは、私にとって幸運なことになるでしょう。
親愛なるマドモアゼル、どうか私たちの尊敬すべき深い愛情表現を信じていただけけますよう。

I.ゴトコフスキー

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親愛なるマドモアゼル。

このクリスマスの期間に、私の心からの願いを贈ることをお許しください。
お願いがあります。ほんの少しの間でも、私のために時間を取っていただくことは可能でしょうか?
どんな日でも、どんな時でも、あなたが私を受け入れてくれる時に、私はスケジュールを空けて会いに行きます。
あなたに会えることを心待ちにしております。親愛なるマドモアゼル、私たちの大きな、そして愛情に満ちた賞賛の気持ちを受け取ってくださいますよう。

イダ・ゴトコフスキー

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親愛なるマドモアゼルへ。

3月15日という特別な日に、祈りを込めて、私たちの深い尊敬の念を表現させてください。

Ida Gotkovsky

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親愛なるマドモアゼル・ブーランジェへ。

3月15日(火)にサント・トリニテ教会で行われる礼拝に、私たちはこれまで以上に心を寄せています。
ドイツで私のオペラが上演されるため、その日は欠席せざるを得なくなりました。
親愛なるマドモアゼル、どうか私たちの親愛と尊敬の気持ちを受け入れてくださいますよう。

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親愛なるマドモアゼル!

私たちのことをこんなに思ってくれているなんて、感激です。とても意味のあるメッセージに心から感謝しています。私は3月15日にパリにいることができませんでしたが、あなたのために、そしてあなたの愛する人のために祈ることを止めません。
私は自分の交響詩デビューのためにアメリカへ出発しますが、そこで真のコラボレーションを見つけたいと願っています。
親愛なるマドモアゼル、どうか私の誠実な気持ちを信じて、精神的に、そして敬意を持っていつもあなたの近くにいることをお許しくださいますよう。

イダ・ゴトコフスキー

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1967年、アラン・ベルノーの音楽理論のクラスの集合写真。

2022/06/09

ゴトコフスキーからナディア・ブーランジェへの手紙(1)

David Michael Wacyk著「POWERFUL STRUCTURES: THE WIND MUSIC OF IDA GOTKOVSKY IN THEORY AND PRACTICE」より、ゴトコフスキーからナディア・ブーランジェへの手紙の一部を日本語に訳した。ブーランジェに心酔する様子がひしひしと伝わってくる。

残りは後日掲載予定。

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親愛なるマドモアゼル、そして親愛なるマエストロ。

このたびのリリ・ブーランジェ賞の受賞に感謝いたします。
この賞の受賞は、私にとって非常に感慨深いものであり、この賞が思い起こさせる輝かしい、感動的な人物の姿を思い起こさせます。
親愛なるマドモアゼル、どうか私の心からの敬意を受け取っていただけますよう。

イダ・ゴトコフスキー

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親愛なるマドモアゼル・ブーランジェ

昨夜、ラジオからあなたの声を聴いたときの私たちの喜びを想像してください。
讃美のアレルヤに加わり、"親愛なるマドモアゼル・ナディア・ブーランジェ "と高らかに歌うことをお許しください。
親愛なるマドモアゼル、どうか私たちの心からの賞賛を受け入れてくださいますよう。

イダ&ネル・ゴトコフスキー

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親愛なるマドモアゼル・ブーランジェ

あなたの妹さんの有名な作品「Du fond de l'abîme」(De Profundis)を私自身の体調不良で聴くことができなかったことを深くお詫び申し上げます。
親愛なるマドモアゼル、私の深い後悔を信じて、私の誠実で尊敬に満ちた思いと、深い賞賛をお受け取りください。

イダ・ゴトコフスキー

パリ15区エルネスト・レナン通り20番地

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親愛なるマドモアゼル

水曜日に "トリニテ(・カテドラル)"に向けて出発されるということで、深く感動しています。
どんなに美しく、どんなに感動的なものになることでしょう。
親愛なるマドモアゼル、私のことを思ってくださったことに感謝いたします。
もしよろしければ、土曜日に、私のオーケストラのためのスケルツォが、コンサート・レフェレンダム・パドルーで演奏されることをお知らせしたく思います。あなたのお時間がいかに貴重であるかを知っているので、聴きに来てくださいということは申し上げられませんが、親愛なるマドモアゼル、あなたの洞察に満ちた親切がいかに私の心に親しみ、喜びで満たされているかをお伝えしたいと思います...私は自分自身を大いに疑っていますので。
親愛なるマドモアゼル、このような言葉を直接書くことをお許しください。そして、私の深い愛情に満ちた敬愛を受け入れていただけますよう。

イダ・ゴトコフスキー

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親愛なるマドモアゼル

肺炎で寝たきりのため、電話も会いに行くこともできませんでした。
回復したら、すぐにでも電話いたしますので、お許しください。
26日のコンサートに来ていただいて、両親もネルも私もどんなに感動したことか、改めてお伝えしなければなりません。
ですから、もしお許しいただけるなら、すぐに連絡を取るつもりです、親愛なるマドモアゼル。それまでは、私の真に愛情深い言葉を信じていただけますよう。

イダ・ゴトコフスキー

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イダ&ネル・ゴトコフスキー姉妹の写真。ネルはヴァイオリン奏者だった。

2022/05/06

ピエール・ヴェローヌのドキュメンタリー

1993年制作、François Demerliac監督による、作曲家ピエール・ヴェローヌのドキュメンタリー。


サクソフォン作品を多数残したこともあって、24分あたりからはサクソフォン作品の演奏で、Jacques Desloges氏とそのカルテットメンバーが登場。「プレリュードとロンド」を演奏している。

その他、冒頭からサクソフォン、チェレスタ、ハープの「ラプソディ」が流れ、さらに四重奏の「野獣園」「アンダルシアの騎士」などもBGMとして使われている。演奏者のクレジットは、演奏動画のQuatuor Desloges以外は不明だが、やはりDesloges氏の演奏なのだろうか。

テナーはステファヌ・ラポルテ Stephane Laporte氏で、フルモー四重奏団のテナー奏者としてもおなじみだ。30年前なのか…若い。

2022/04/30

初めて見るデザンクロの写真

一般的に、我々が唯一知るデザンクロの写真は、こちらのものである。しかし、Orgue en Franceというサイトの2021年の記事(下記リンク先)に、初めて見るデザンクロの写真が掲載されていた。

1. ロラン・ファルシネリ、アルフレッド・デザンクロ、レイモン・ガロワ=モンブラン

2. ローマ大賞1983年:左から順に、アンドレ・ラヴァーニュ、シモーヌ・リテズ(奥)、ガストン・リテズ、エリアン・リシュパン、アルフレッド・デザンクロ、レイモン・ガロワ=モンブラン(奥)、アンリ・デュティユー(クロード・パスカルのコレクション)

3. 1967年のアルフレッド・デザンクロ

大変貴重な写真だ。転載しないので、ぜひリンクにアクセスして見ていただきたい。付随する解説文(息子のフレデリック・デザンクロによるもの)は、下記に翻訳した。最後に書かれている2001年の盗作事件についてのワシントン・ポストの記事は、探したところオンラインにあるのを見つけたので、別の機会に翻訳する予定。

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1942年にローマ大賞を受賞したアルフレッド・デザンクロは、器楽作曲家としてのイメージが強く、例えばサクソフォンやトランペットのための作品が世界中で演奏されている。「レクイエム・ミサ」は、1965年にORTFでオーケストラ版として初演されたが、1997年にJoël Suhubiette指揮Les elements合唱団によるオルガン伴奏版がリリースされ、一躍20世紀の聖楽の代表作として知られるようになった。その後、ヨーロッパ、イギリス、アメリカの多くのプロ/アマチュアの合唱団がレパートリーに加えている。

この作品は、アルフレッド・デザンクロが1932年にパリ国立音楽院に入学するためにパリに来て以来、聖楽、そしてオルガンとの接点を失うことがなかったことを想起させる。生活のために、ノートルダム・ド・ロレットの礼拝堂の主事に任命され、担当する礼拝の音楽を作曲し、1939年の戦争に動員されるまで聖歌隊のオルガンを演奏していた。1943年から1950年までルーべ音楽院の院長を務めたが、1944年5月に友人たちの結婚のために「Pater noster」を、1953年5月に甥の叙階式のために「Jam non dicam」を作曲するなど、特定の機会に典礼音楽を作曲し続けた。これらの作品は、1956年に出版された「Humble suite au cantique des créatures」、57年の「Nos autem」、58年の「Salve Regina」の3つのア・カペラ作品を除いて未発表のままなので、作曲家としての活動とは無関係と考えたのだろう。

アルフレッド・デザンクロは非常に優れたピアニストで、日常的にシューマンやラヴェル、ドビュッシーを弾いていたが、1957年から1960年頃、サン=ジャン=ドゥ=モンマルトル教会のオルガニストのジャン・バドンに代わって、夏にはオルガンを弾くこともあった。しかし、オルガン曲として残されているのは、リール音楽院の試験のために書いた「プレリュードとフーガ(1950年)」という教育的な目的のための1曲だけである。

「レクイエム・ミサ」は、彼のオルガンによる聖楽へのアプローチの集大成である。1956年に発表され、1963年に主要部分を執筆し、1967年にデュラン社からオルガン/オーケストラの両バージョンが出版された。2001年5月18日、アトランタでこの作品が別の作曲家名で新作として発表・演奏されたが(!)、歌ったことのあった観客がすぐに気づいたため、盗作が発覚した。この事件は大きなスキャンダルを引き起こし(6月7日付のワシントンポストでフィリップ・ケニコットが非常に長く詳しい記事を書いたほど)、この作品が全米にさらに広く知られることになったのは確かである。

フレデリック・デザンクロ