2022/04/30

初めて見るデザンクロの写真

一般的に、我々が唯一知るデザンクロの写真は、こちらのものである。しかし、Orgue en Franceというサイトの2021年の記事(下記リンク先)に、初めて見るデザンクロの写真が掲載されていた。

1. ロラン・ファルシネリ、アルフレッド・デザンクロ、レイモン・ガロワ=モンブラン

2. ローマ大賞1983年:左から順に、アンドレ・ラヴァーニュ、シモーヌ・リテズ(奥)、ガストン・リテズ、エリアン・リシュパン、アルフレッド・デザンクロ、レイモン・ガロワ=モンブラン(奥)、アンリ・デュティユー(クロード・パスカルのコレクション)

3. 1967年のアルフレッド・デザンクロ

大変貴重な写真だ。転載しないので、ぜひリンクにアクセスして見ていただきたい。付随する解説文(息子のフレデリック・デザンクロによるもの)は、下記に翻訳した。最後に書かれている2001年の盗作事件についてのワシントン・ポストの記事は、探したところオンラインにあるのを見つけたので、別の機会に翻訳する予定。

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1942年にローマ大賞を受賞したアルフレッド・デザンクロは、器楽作曲家としてのイメージが強く、例えばサクソフォンやトランペットのための作品が世界中で演奏されている。「レクイエム・ミサ」は、1965年にORTFでオーケストラ版として初演されたが、1997年にJoël Suhubiette指揮Les elements合唱団によるオルガン伴奏版がリリースされ、一躍20世紀の聖楽の代表作として知られるようになった。その後、ヨーロッパ、イギリス、アメリカの多くのプロ/アマチュアの合唱団がレパートリーに加えている。

この作品は、アルフレッド・デザンクロが1932年にパリ国立音楽院に入学するためにパリに来て以来、聖楽、そしてオルガンとの接点を失うことがなかったことを想起させる。生活のために、ノートルダム・ド・ロレットの礼拝堂の主事に任命され、担当する礼拝の音楽を作曲し、1939年の戦争に動員されるまで聖歌隊のオルガンを演奏していた。1943年から1950年までルーべ音楽院の院長を務めたが、1944年5月に友人たちの結婚のために「Pater noster」を、1953年5月に甥の叙階式のために「Jam non dicam」を作曲するなど、特定の機会に典礼音楽を作曲し続けた。これらの作品は、1956年に出版された「Humble suite au cantique des créatures」、57年の「Nos autem」、58年の「Salve Regina」の3つのア・カペラ作品を除いて未発表のままなので、作曲家としての活動とは無関係と考えたのだろう。

アルフレッド・デザンクロは非常に優れたピアニストで、日常的にシューマンやラヴェル、ドビュッシーを弾いていたが、1957年から1960年頃、サン=ジャン=ドゥ=モンマルトル教会のオルガニストのジャン・バドンに代わって、夏にはオルガンを弾くこともあった。しかし、オルガン曲として残されているのは、リール音楽院の試験のために書いた「プレリュードとフーガ(1950年)」という教育的な目的のための1曲だけである。

「レクイエム・ミサ」は、彼のオルガンによる聖楽へのアプローチの集大成である。1956年に発表され、1963年に主要部分を執筆し、1967年にデュラン社からオルガン/オーケストラの両バージョンが出版された。2001年5月18日、アトランタでこの作品が別の作曲家名で新作として発表・演奏されたが(!)、歌ったことのあった観客がすぐに気づいたため、盗作が発覚した。この事件は大きなスキャンダルを引き起こし(6月7日付のワシントンポストでフィリップ・ケニコットが非常に長く詳しい記事を書いたほど)、この作品が全米にさらに広く知られることになったのは確かである。

フレデリック・デザンクロ

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