2022/07/03

ゴトコフスキーのサクソフォン協奏曲集のこと

ゴトコフスキー「サクソフォン協奏曲」「悲愴的変奏曲」のオーケストラ版の、唯一と思われる商用録音(LP)が、下記出版元サイトから購入できるようだ。「悲愴的変奏曲」はライヴ演奏。On Stockの記載もあり。

https://www.challengerecords.com/products/1385652877

Ed Bogaard独奏、ジャン・フルネ指揮Omroep Orkest/Radio Kamer Orkestによる。極めてハイ・テンションというか、ゴトコフスキー作品らしい、"激情を湛えながら変容を繰り返していく"を地で行くような内容で、聴いていくうちに細かなテクニカル面が気にならなくなってくる。

最近はYouTubeなどにも演奏がアップされるようになったが、私にとってはやはりこの演奏がスタンダードだ。これを聴いて以降、基準にその後の諸々の演奏を耳にすることになった。その中で、藝大フィルハーモニアと中島諒さんの演奏は、やはりトップクラスの内容で、良く聴いている。

2022/07/02

Frederick Hemke plays Husa

フレデリック・ヘムケ氏が演奏するフサ作品「協奏曲」「エレジーとロンド(サクソフォン+木管五重奏版)」の録音。「協奏曲」は、テキサス大学ウィンドアンサンブルとの共演、1971年の録音。「エレジーとロンド」は1972年の博士号リサイタルの録音で、ヘムケ氏自身のアレンジである。


それぞれ、UT Saxophone Studioと、J.Heaneyさん(ヘムケ氏のお弟子さんらしい)によるアップロード。こういった貴重かつ極めてハイ・クオリティな録音が、急に現れ、自由にアクセス可能となるのが、インターネットの醍醐味の一つだ、と思う。

2022/07/01

ゴトコフスキーの音楽的キャリア

引き続き、David Michael Wacyk著「POWERFUL STRUCTURES: THE WIND MUSIC OF IDA GOTKOVSKY IN THEORY AND PRACTICE」より。

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1941年、ゴトコフスキー一家はエッサール・ル・ロワに移住したが、イダは8歳にして才能ある作曲家としての地位を確立した。作曲を志すようになったのは、自分を取り巻く世界から感じたことを表現したいという内面的な葛藤からだった。「夕焼けの向こうに何があるのか、それをどう表現したらいいのか。それを表現できないのは、まさに拷問。それが創作の原動力でした」。確かに、円熟期の作品の作風を見ると、その動機は今も続いているようだ。激情を湛え、連続的に変容していく、ゴトコフスキーの音楽の性質は、表現できないものを表現したいという彼女の願望、ひいては無限への探求を描き出しているのだ。

ピアニスト、作曲家として有望視され、1943年、10歳でパリ音楽院に入学(11歳のときから個人的にピアノを教え始める)。1957年にパリ音楽院を卒業するまでに(ある記者は「マドリード通りの音楽院での非常に長い滞在」とも表現している)、ゴトコフスキーは同音楽院の作曲・文学の一等賞をすべて獲得している。 音楽院在学中は、彼女の作曲スタイルとキャリアに影響を与えた数多くの教師のもとで学んだ。彼女の師匠は次の通りである。オリヴィエ・メシアン Olivier Messiaen、ジョルジュ・ユゴン Georges Hugon(ピアノ、和声、分析)、ノエル・ギャロン Noël Gallon(対位法、フーガ)、アリス・ペリオ Alice Pelliot(ソルフェージュ、聴音)、トニー・オーバン Tony Aubin(作曲)、ナディア・ブーランジェ Nadia Boulanger(作曲)。中でもオリヴィエ・メシアンとナディア・ブーランジェは、ゴトコフスキーに最も大きな影響を与えた教師である。彼女の人生と作曲に与えた影響を考えると、ゴトコフスキーの音楽的な育ちを理解するための基礎として、彼らの指導スタイルの概要を簡単に説明する必要がある。

メシアンは、パリ音楽院では、和声(1941年)、分析(1947年)、作曲(1966年)の教授を務めた。同音楽院で長年にわたって教鞭をとり、多くの若い作曲家が彼の指導を受けることになった。彼の指導法は、生徒の表現の自由を育むものであった。彼は作曲のスタイルを指示することを望まなかったが、弟子たちが彼のスタイル、あるいは作曲家のプロセスの特徴を吸収することは自然なことであった。メシアンの教育スタイルについての調査の中で、ヴァンサン・ベニテスはこう述べている。

メシアンは、自分が信じていることを生徒に強制することはなく、しばしば沈黙を好むことさえあった。それでも、教育を通じて、作曲家として生徒に影響を与えた。彼の教育法は、理想的な作曲家の構成的な見通しを指導するようなものではなく、メシアンその人自身と結びついたものであった。

さらに、ベニテスはこうも語っている。「メシアンは常に生徒の想像力をかき立てようと努めました。その結果、彼らはしばしばクラスの外でアイデアを探求し、議論するようになったのです。」ゴトコフスキーは、メシアンの弟子の多く(ブーレーズ、クセナキス、シュトックハウゼンなど)と同様に、独自の音楽スタイルを持っているが、メシアンは彼女の作曲技法に極めて大きい影響を与えたという。

ナディア・ブーランジェは、第二次世界大戦後、パリ音楽院で教鞭をとっていた。ブーランジェは、メシアンと同様、生徒の個性を伸ばし、その個性が作曲の原動力となるようにすることに関心をもっていた。しかし、ブーランジェは、生徒が自身の作曲のルーツを知っていることを確かめ、しばしば生徒の楽譜を初期の巨匠と比較し、「もっと面白い道を見つけなさい」と促すなど、冷酷な面もあった。ブーランジェは、「私は誰かに独創性を与えることはできないし、それを奪うこともできない。私ができるのは、ただ読み、聴き、見て、理解する自由を与えることだけだ」と述べている。

アメリカの作曲家、ネッド・ロレムは、ブーランジェが自分のクラスで女性を男性よりも高い基準で指導していたと考えている。彼は、「ブーランジェいつも男性の生徒には有利な条件を与え、女性には過大な負担を強いていた」と述べている。このような厳しい目があったにもかかわらず(あるいは、それゆえに)、ゴトコフスキーはブーランジェと永続的な個人的関係を築いたようである。それは、フランス国立図書館に所蔵されている、1957年から1978年までの21年間にゴトコフスキーがブーランジェに送った一連の手紙からも明らかである。これらの手紙は、主に互いの演奏会への招待や出席という形で、彼女たちが互いに賞賛し合っていたことを示す証拠となる(ほぼ全て日常的な内容)。また、ゴトコフスキーの音楽院卒業後も、ブーランジェからのアドバイスやゴトコフスキーの面会の依頼というやり取りが見て取れる。1963年10月に書かれたある手紙は、二人の温かくも堅苦しい生徒と教師の関係を示しており、ゴトコフスキーがブーランジェに対して心を開いていることがわかる(下記書簡の引用を参照)。

マドモアゼル・ナディア・ブーランジェ
バルー通り33番地
パリ9区
親愛なるマドモアゼルへ。
水曜日に「トリニテ」に向けて出発されるとのこと、深く感動しています。どんなに美しく、深い感動を与えてくれることでしょう。親愛なるマドモアゼル、私のことを思ってくださったことに感謝いたします。
土曜日に、私のオーケストラのための「スケルツォが」、コンセール・レフェレンダム・パドルーにて演奏されることをお知らせいたします。
あなたのお時間がいかに貴重であるかを知っているので、聴きに来ていただくようお願いするのは極めて心苦しくもあります。
親愛なるマドモアゼル、あなたの洞察に満ちた慈愛がいかに私の心に響き、喜びで満たされているかをお伝えいたします...私は自分自身を大いに疑っているので。
親愛なるマドモアゼル、このような言葉を直接書くことをお許しください。そして、私の非常に深い愛情に満ちた賞賛を、どうか信じていただきますよう。
イダ・ゴトコフスキー

この書簡は、ブーランジェがゴトコフスキーとその家族に対して、作曲家でありナディアの最愛の姉であるリリ・ブーランジェの追悼式(おそらくコンサート)に何度も招待していたことを示すものである。これらは1960年代半ばにトリニテ大聖堂で定期的に開催された。

ゴトコフスキーは、パリ音楽院での他の教師たちの影響も認めている。「私はトニー・オーバン、ノエル・ギャロン、ジョルジュ・ユゴン(3人はポール・デュカスの弟子)の生徒で、音楽芸術の理想的統合である"フランス楽派"に属しています」と、自身の流派について述べている。しかし、「私にはたくさんの師匠がいるので、特定の一人を私の師匠だと決めつけることはできません。」とも述べている。この発言は1979年のもので、ゴトコフスキーがキャリアの中盤に移行する中で、フランス音楽の伝統を受け入れていることを示している。この時期、フランス人としてのアイデンティティと美意識は、国際的な評価を得るための財産となった。

ゴトコフスキーは、その長いキャリアを通じて、作曲家として世界各地を訪れた。1970年代半ばから1990年代半ばにかけての最も忙しい時期には、マスコミはしばしば彼女を「フランス音楽大使」などと呼んだ。スペイン(1966年)、オランダ(1981年、世界音楽コンクール)、ソ連(1984年、モスクワ音楽祭)、米国(1978年、1983年)などで公演を行っている。最初のアメリカツアーは、おそらく彼女の最も有名な管楽器のための作品である「Poem du feu」の世界初演を中心としたものであった。この作品は、マックス・マッキーと南オレゴン大学バンドの委嘱によるもので、1978年のCBDNA北西部大会で作曲家が臨席の下、初演された。1978年のツアー中、ゴトコフスキーはノーステキサス大学のレジデンス講師も務めた。2度目のアメリカツアー(1983年)では、ミシガン州立大学のアーティスト・イン・レジデンスとして、フレデリック・フェネルと共同作業を行った。

フェネルは、1994年に東京佼成ウィンドオーケストラと録音したゴトコフスキーの「管弦楽のための協奏曲」(フェネルはこれを「吹奏楽のレパートリーへの真の貢献」と呼んだ)を中心に、早くからゴトコフスキーを高く評価した。この間、ゴトコフスキーの作品をプログラムし、録音した重要な管楽器指揮者には、ノルベール・ノジ、ジョン・R・ブルジョア大佐がいる。ノジ(ゴトコフスキーのことを「ヨーロッパで最も著名な作曲家の一人」と称する)は、彼の率いるベルギー・ギィデ交響吹奏楽団とともに、彼女の吹奏楽作品のみを収録したアルバムを4枚も制作している。 また、「The Presidents Own's」ことアメリカ海兵隊バンドの指揮者であるブルジョワは、1984年と1986年に彼女の「吹奏楽のための交響曲」を演奏している。

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ゴトコフスキー(中)とブルジョワ大佐(右)の写真



2022/06/29

デニゾフ「ヴィオラ協奏曲」初演の録音

BISレーベルにおいて、クロード・ドゥラングル氏を独奏に迎え録音されているエディソン・デニゾフ「アルトサクソフォン協奏曲」。元は「ヴィオラ協奏曲」として1986年に発表されたものが、ドゥラングル氏の委嘱によって1992年に改作されたものである。

第4楽章(シューベルトの「即興曲イ長調作品142」の変奏)に耳が引き寄せられがちになるが、とにかく全体を通して独奏パートが美しい。緩徐部は、まるで誰かの独白を聴いているかのような、声楽で歌詞がついていてもおかしくないような音運びだ。時折迎える小規模な爆発は、がなり立てることなく、まるで星の煌きのよう。

その元となった「ヴィオラ協奏曲」の初演の録音が、YouTubeにアップロードされている。私自身は、原曲は初めて聴いた。そもそも商用録音としてのリリースすらもされていなかったはず。

以下、初演のデータを掲載する。独奏がユーリ・バシュメットに、指揮がシャルル・デュトワという超豪華布陣。青少年オーケストラ、ということで若干怪しい音も聴こえるが、しかし貴重な録音である。サクソフォン版とぜひ聴き比べてみていただきたい。

Concerto for Viola and Orchestra (1986)
Commissioned by Berliner Festwochen
Dedicated to Yuri Bashmet
1. Lento · Più mosso · Agitato · Più tranquillo · Meno mosso · Agitato
2. Tranquillo
3. Inquieto · Meno mosso
4. Variations on a theme by Schubert Moderato · Poco più animato · Tempo I
Duration: 38’
First performance: 2 September 1986, Berlin
Yuri Bashmet (viola) – Junge Deutsche Philharmonie – Charles Dutoit (conductor)

2022/06/27

デザンクロの「ピアノ五重奏曲」の放送用録音

https://pastdaily.com/2022/06/19/marie-therese-ibos-ensemble-play-music-of-alfred-desenclos-1952-past-daily-weekend-gramophone/

おなじみPastdailyより、アルフレッド・デザンクロ「ピアノ五重奏曲」の録音。Marie-Thérése Ibosのアンサンブルで、1952年頃の録音とのこと。おそらく、Internet Archiveにアップされている録音と同じものであるが、こちらのほうが音質が良い。

かつて出版されていたが、絶版となり久しく、もはや演奏されることも無いが(下記は、ツイッターにアップされたスコアの最初のページの画像)、デザンクロの他の作品と同様、高い密度で書かれた佳曲である。

以下、Pastdailyのページの解説文を抜粋・翻訳したもの。

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1945年に作曲された「ピアノと弦楽のための五重奏曲」は、Marie-Thérése Ibosと彼女のアンサンブルによって初演された。今回の放送は、それから何年か(1952年と推測されるが、この手のフランス放送局のトランスクリプションの多くがそうであるように、日付がないので推測になる)経って、約27回の演奏の後、同アンサンブルがこの曲を演奏している。

デサンクロは自称「ロマン派」で、厳格な作曲技術に根ざした、表情豊かで雰囲気のある音楽が特徴である。大家族(10人兄弟の一人)を養うため、20歳までは音楽教養を身につけることを断念し、繊維工業におけるデザイナーとして働いていた。1929年にフランスのルーべ音楽院に入学し、ピアノを学ぶことになるが、それまではアマチュアとしてしか活動していなかった。1932年にパリ国立高等音楽院に入学し、フーガ、和声、作曲、伴奏で賞を獲得し、パリ9区のノートルダム・ド・ロレッテ教会でカペルマイスターの職に就いて、生計を立てた。

サン=サーンスに始まり、フォーレに受け継がれた聖楽の伝統を受け継いでいる。1942年、ローマ賞を受賞し、同年、映画「青いヴェール」の音楽をアンドレ・テュレと共同作曲している。

1943年から1950年まで母校ルーベ音楽院の院長を務め(教え子のひとりに映画監督クロード・シャブロルのお気に入りの作曲家ピエール・ジャンセンがいた)、1967年から59歳で亡くなるまでパリ音楽院で和声学を教えていた。

2022/06/25

伊藤康英編のバッハ「シャコンヌ」サクソフォン四重奏版

2005年9月の雲井雅人サックス四重奏団第4回定期演奏会にて初演され(これが初演時の録音)、その後イトーミュージックより楽譜が出版された。ここ数年、国内外の団体に多く演奏されるようになってきた。

ヴァイオリンのための無伴奏パルティータ第2番の終曲「シャコンヌ」は、バッハの、いや、全てのヴァイオリンの無伴奏作品の中でも最高峰であり、過去から演奏され尽くしている作品。この作品を、サクソフォンで再現する試みは、直接的に無伴奏のサクソフォンで演奏するアプローチの他、四重奏では古くはGary Scudder編、最近では宮田麻美編なども知られるが、個人的に最も好んでいるのが、伊藤康英先生の編曲だ。

原曲の、朴訥としたモノローグが徐々に大伽藍のように立ち上がっていく、そういった変幻自在の趣とは少し異なり、起承転結のようなドラマティックな構成が魅力的で、それはそのままサクソフォンという楽器の個性に繋がっている、とも感じる。ブゾーニの編曲がベースになっているから、とも思ったが、それだけではなく、伊藤康英先生自身が盛り込んだ要素+構成感が、この編曲のオリジナリティの礎になり、価値を高めているのだと思っている。かつて、The SAXの企画で、「私が選ぶサクソフォン四重奏の名曲」をThunderさんとともに5つ選ぶ機会があったのだが、グラズノフ等は当然として、その中に変則と知りつつこの作品を入れたことを思い出す。

YouTubeを探せば、Quatuor B他、多くの演奏が見つかり、さらに、直近では日本の若手四重奏団である、Modetro Saxophone Quartetの商用録音(同曲初)もリリースされた。今後ますますこの作品の演奏が広まり、サクソフォンのスタンダード・レパートリーとなっていくことが期待される。

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個人的なこの作品にまつわる経緯は、以下。

初演を聴いて出版を切望し、伊藤康英先生に出版を掛け合い、初演翌年の2006年に出版された楽譜を入手。その後、あまりの難易度になかなか取り組めずにいたが、2011年5月のTsukuba Saxophone Quartetの自主公演においてようやく演奏することができた(本当は同年3月の日本サクソフォーン協会のコンクールにて演奏する予定だったが、東日本大震災により同コンクールは中止となった)。その後、2012年7月の第16回世界サクソフォンコングレス@スコットランド他、何度か取り上げた。

ちなみに、楽譜を取り扱っているブレーンミュージックのサイトの「参考音源」のバナーが、上記2011年のTsukubaSQの自主公演の動画にリンクされている。

2022/06/22

木の十字架少年合唱団とデザンクロ

アルフレッド・デザンクロの足跡は、木の十字架少年合唱団 Les Petits Chanteurs A La Croix De Bois とのコラボレーションという形でも残されている。

「Les Gens Du Nord」という同合唱団の商用録音のアルバムには、オーケストレーション担当の名前としてフルネームで"Alfred Desenclos"と記載があり(下記画像)、その他の曲にも同じくアレンジャーの名前として記載を見ることができる(https://www.youtube.com/watch?v=W0Ha4dmN6G4)。


コラボレーションに至ったは不明。オルガン奏者としての活動、教育者としての活動、そのいずれかの結果なのかとは想像している。