近代フランスの作曲家の経歴を調べていると、必ず出てくる「ローマ大賞」について、関連する項目をMusica et Memoriaより抜粋・翻訳する。
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1666年にLebrunとColbertの共同提唱で設立されたローマ・アカデミー・ド・フランス(ローマ芸術賞)は、設立以来、画家、彫刻家、彫刻家、建築家、作曲家などの受賞者を輩出している。1968年までは、フランス学士院の一部であるアカデミー・デ・ボザールがローマ賞を授与していた。
作曲の場合、30歳以下の受験生は、下記複数回の試験をパスしなければならない。
・予備テスト1:フーガ課題。・本試験:カンタータ試験(決められたテキストに基づいてカンタータを書く。この試験は長い時には1カ月も続いた)
21903年以降、ローマコンクールの模擬試験はコンピエーニュ城で行われたが、フォンテーヌブロー城で開催されたこともある。
コンクール開始当初、ローマ賞の1等賞受賞者は、最長5年間ローマに滞在できるよう招待され、滞在中は年に1つ以上の大作を作ることが課せられた。20世紀初頭以降、1等賞受賞者は2〜3年、メディチ荘に滞在した。年によっては1名以上に2等賞が授与され、「第1番の2等賞」には滞在期間が短縮された滞在機会が与えられた。
賞の順番は、1等賞主席、1等賞次席、2等賞主席、2等賞次席、選外佳作。これらのややこしい名前は、1等賞=グランプリ(またはファーストグランプリ)、2等賞=セカンドグランプリというシンプルなものに置き換えられた。. さらに、1940年代以降、第1等賞次席を授与することはなくなり、1等賞、2等賞主席、2等賞次席、とだけ語る習慣が定着したようである。1960年以降、伝統的な「カンタータ」に代わって「抒情詩(Poème lyrique)」が登場した。
コンクールに対するさまざまな批判を受け、また、1968年5月の平等主義の精神を受け、ローマ賞は、少なくともそれまでの形では廃止されることになった。1971年以来、ヴィラ・メディチに滞在することを許される「寄宿生」は、委員会によって任命される。ローマにあるフランス・アカデミーは、現在、行政的地位、市民的地位、財政的自治権を持つ国立の公的機関であり、アカデミー・デ・ボザールではなく、文化大臣の監督下にある。また、法的には、メディチ荘を拠点としている。
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メディチ荘の風景。1803年にナポレオンが「在ローマ・フランス・アカデミー」を創設し、イタリア・ローマのメディチ荘(メディチ家といえばフィレンツェだが、そのメディチ家の、ローマにおける筆頭とも言える建築物)を拠点としたが、それは、フランス革命で存亡の危機に立たされた研究機関を守るためであった。ナポレオンは、古代とルネサンス期の名作を見て模写する機会をフランスの若い芸術家に与えることを望んだといわれている。
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