指揮者のHervé Niquetが、アルフレッド・デザンクロの「レクイエム」を録音した際、Stefan Grondelaersとともに、フレデリック・デザンクロ(アルフレッド・デザンクロの息子、オルガニスト)へインタビューした模様を翻訳。
父(アルフレッド)について、「レクイエム」について、自身の経験も交えつつ語っており、極めて興味深い内容だ。
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ーーーあなたのお父様はご自身を「ロマンティック」だと表現していました。それは性格についてでしょうか、それとも作曲する音楽についてでしょうか?
フレデリック・デザンクロ:特に音楽についてです。父はドビュッシーやラヴェルを絶対的に崇拝しており、自らを彼らの後継者の一人と考えていました。そして、ブーレーズのモダニズムに対抗するために、「ロマンティック」という言葉を使い、自らをその陣営に位置づけていたのです。戦後まもなく、この両陣営の対立が顕著になりました。ブーレーズは音楽界の権威を味方につけ、自分のセリエリズムにおける野心を推し進めることに成功しましたが、一方でそのことは、「ロマンティック」な作曲家のキャリアが抑制された、と言っても良いでしょう…そう、私の父のように、です。アルフレッド・デサンクロがはっきりと自分の意見を述べたという証拠はたくさんあります。私は1956年の新聞の切り抜きを保存しているのですが、その中で父は、自分は"20世紀の子"であって、革命家ではない、と力強く述べています。「私にとって、音楽は感情であり、感情を拡げるものでなければならない。作曲するとき、私は音楽がどうあるべきかという既成の定義を持たない」。私が小さい頃、サル・プレイエルで「レクイエム」の演奏を聴いた時、プログラムノートの冒頭には、「このレクイエムは、典礼の伝統に深い敬意を払って書かれたものであり、演劇的な効果は徹底的に排除されている。オーケストレーションにあたり耳障りな楽器は入れておらず、ラテン語によく合う古代の手法に従って処理されている」と書かれていました。さらにプログラムノートには、「現在の"美学"とは断固として距離を置く」とも書かれており、父は「音楽は知的なものに留まらず、それを超えて感情を伝えるべきもの」と固く信じていたのです。さて、この音楽に対する「ロマンティック」な姿勢は、父のおおらかでオープンな性格と同時に、謙虚な姿勢とも重なります。ラヴェルの後を継ぐことを熱望しながらも、巨人であったラヴェルに対し、自身のことは取るに足らない人物であったと感じていたのです。
ーーーお父様のレクイエムが作曲された具体的なきっかけをご存知ですか?
フレデリック・デザンクロ:「レクイエム」は1956年6月の新聞記事ですでに発表されていますが、初演されたのは1963年でした。レクイエムは、明らかに長期にわたるプロジェクトで、そういった意味から、きっかけのような特別な理由があったとは考えにくいですね。
ーーーあなたはオルガニストとして「レクイエム」を録音していますね。あなたにとって、それはどのような意味を持つのでしょうか。
フレデリック・デザンクロ:極めて魅力的で、深い感動を得た経験でした。レクイエムはもともとオーケストラのために構想され、書かれたもので、オルガンのリダクションを演奏した人はそれまでいなかったと思います。また、父はオルガン独奏のための曲を書いたことがありません。ある日突然、私のもとにミステリアスな形で招待が届いたのです。ある晴れた朝のことです。トゥールーズの首席オルガニスト、ミシェル・ブーヴァールから電話がかかってきました。「指揮者のジョエル・スービエットが、自分の合唱団のレベルを上げるために音楽を録音したいそうで、レクイエムなどの古い楽譜に目をつけた。その企画でオルガンを弾いてくれないだろうか?」というのです。曲の詳細を聴いて初めて分かったのですが、そのレクイエムが私の父のものだったのです。いずれにせよ、スービエット氏の録音は、それまでやや狭い世界でしか知られていなかったこの作品の人気を高めることになりました。デサンクロの「レクイエム」は、アマチュアの上級合唱団のレパートリーにもなりつつあるようです。技術的には、最初に受ける印象より難しい作品ですが、私にとっては、完璧に演奏されることよりも、演奏されることが重要なのです。
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フレデリック・デザンクロの写真。上記インタビューでも触れられているHORTUS盤(アルフレッド・デザンクロ「レクイエム」所収)が有名だが、どちらかといえば彼の演奏盤はALPHAレーベルに多く見られる。
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