マルセル・ミュール氏がソプラノサクソフォンで参加した、プラド音楽祭のバッハ「ブランデンブルク協奏曲」の録音は有名だ。1950年にプラドで開かれたこの音楽祭では、高名なチェリストであるパブロ・カザルスを芸術監督とした種々の演奏会が開かれ、その多くが録音として後世に残されている。
そもそも、音楽祭の開催経緯等について良く理解していなかったなと思い、少し調べてみたところ、「Festival Pablo Casals」という、現代の音楽祭のページにプラド音楽祭のことが書かれていたので、訳してみた。
事の発端は、1939年、カザルスがスペイン内戦のため、フランスへ亡命し、スペインとの国境に近いプラドに居を構えることから始まる。その後、欧州での大戦集結(1945年5月ドイツ降伏)直後である1945年、6月から演奏活動を再開したが、各国政府がスペインのフランコ政権を容認したことに抗議、同年11月から演奏活動を停止していた。
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アレクサンダー・シュナイダーのプロジェクトは、バッハの没後200年記念にカザルスを説得して音楽祭を開催する、というものであった。この時ばかりは、ヨーロッパとアメリカの偉大な演奏家たちが、旅費とギャラ無し、という条件を受け入れたのだ。そして、その利益は、多くのスペイン人亡命者が治療を受けていた、ペルピニャンの病院に還元された。カザルスは、様々な批判的な意見を理解しつつも、この提案を拒否することはできないと理解していたようだ。音楽祭の開催、オーケストラ結成、リハーサルはリスクを伴う仕事であり、カザルスはその危うさを十分承知していた。当時、プラドという小さな町には、まともなホテルは30室しかなく、ペルピニャンとの交通も不便であった。資金集め、移動と音楽家の受け入れ、宣伝、さらに3週間で12回のコンサートを開催できる場所を見つけなければならなかった。アレクサンダー・シュナイダーは、この音楽祭の資金調達のためにアメリカで委員会を設立し、現地では、カザルスの周りに多くのボランティアが集まりつつあった。この過程で、カザルスはようやく疲弊から脱し、新しい活力生命を手に入れることができた。
73歳のカザルスは、誰よりも自分の力を出し切っていた。50日間の準備期間中、カザルスは父性、熱意、静寂の入り交じった表情でリハーサルを指揮し、「バッハは世間で言われているような堅苦しい機械人間ではありません。バッハは、民俗学から不断に学んでいる繊細な人間なのです。私たちは彼のような感性で演奏しなければならない」と述べている。
1950年6月2日午後9時半、音楽祭の初日、プラド教会には扉が閉まりきらないほどの聴衆が詰めかけた。司教であるMonseigneur Pinsonが歓迎の辞を述べ、続いて、パブロ・カザルスが入場。一礼し、バッハの無伴奏チェロのための組曲第1番ト長調でコンサートの幕を開けた。
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音楽祭のポスター。チェロを弾く天使の絵が強烈な印象を残す。
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