2022/08/27

Le Monde紙のクロード・パスカル追悼記事(2017年)

2017年3月7日付、Le Monde紙上に掲載されたクロード・パスカルの追悼記事である。パスカルの、フランス音楽史の語り部としての側面を強調するかのような内容で、興味深い。


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2月28日、作曲家クロード・パスカルがパリのラリボワジエール病院で死去した。96歳であった。彼の死によって、ローマ賞時代の最後の生き残りがいなくなり、そして何より、ウィットと同様、正しく保たれた時代の記憶が消えてしまったのだ。フランスの偉大な伝統である、緻密な職人気質のクリエイターの一人であった彼は、単なる目撃者としてではなく、自身の音楽人生を、まるで本を開くように語ってくれたものだ。

1921年2月19日、パリで、決して裕福ではないが「音楽とは何かについて非常にハイレベルな考えを持っていた」家庭に生まれたクロード・パスカルは、1931年11月30日にパリ・コンセルヴァトワールに入学し、学年末に一等賞を獲得している。ピアノではあまり成功せず、1935年に二等賞を獲得したのみである。翌年には和声に目を向け、「la clef de voûte du système」のジャン・ギャロンに師事した。1939年(和声)、1940年(ノエル・ギャロンのクラスの対位法とフーガ)、1943年(アンリ・ビュッセルのクラスの作曲法)と、3度にわたって一等賞を獲得したのである。

ヴィラ・メディチの住人:
視覚だけでなく聴覚にも才能のある学生だったクロード・パスカルは、重要な経験を思い起こすことで、それぞれの教師の肖像を描くことができたのだろう。ある日、彼は午後2時にアンリ・ビュッセルの教室に行き、自作のメロディを提出したが、2時間後に自分の楽譜について一言も話すことができないまま帰ることとなった。先生は2時間、「長く息をすることさえ許されない」状態で話をしたのである。1941年に一等賞を受賞して退官した音楽史のクラスを教えていたルイ・ラロワについて、クロード・パスカルは、言語学者としての資質を強調し、歴史的事実(ラロワはモデスト・ムソルグスキーのオペラ『ボリス・ゴドゥノフ』のフランス語訳を制作した)や家庭での観察(教授の部屋の1つには「すべて中国語の本が並んでいた」)によってそれを裏付けている。

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1947年のクロード・パスカルの写真。26歳前後、ということになる。



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