2022/04/30

初めて見るデザンクロの写真

一般的に、我々が唯一知るデザンクロの写真は、こちらのものである。しかし、Orgue en Franceというサイトの2021年の記事(下記リンク先)に、初めて見るデザンクロの写真が掲載されていた。

1. ロラン・ファルシネリ、アルフレッド・デザンクロ、レイモン・ガロワ=モンブラン

2. ローマ大賞1983年:左から順に、アンドレ・ラヴァーニュ、シモーヌ・リテズ(奥)、ガストン・リテズ、エリアン・リシュパン、アルフレッド・デザンクロ、レイモン・ガロワ=モンブラン(奥)、アンリ・デュティユー(クロード・パスカルのコレクション)

3. 1967年のアルフレッド・デザンクロ

大変貴重な写真だ。転載しないので、ぜひリンクにアクセスして見ていただきたい。付随する解説文(息子のフレデリック・デザンクロによるもの)は、下記に翻訳した。最後に書かれている2001年の盗作事件についてのワシントン・ポストの記事は、探したところオンラインにあるのを見つけたので、別の機会に翻訳する予定。

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1942年にローマ大賞を受賞したアルフレッド・デザンクロは、器楽作曲家としてのイメージが強く、例えばサクソフォンやトランペットのための作品が世界中で演奏されている。「レクイエム・ミサ」は、1965年にORTFでオーケストラ版として初演されたが、1997年にJoël Suhubiette指揮Les elements合唱団によるオルガン伴奏版がリリースされ、一躍20世紀の聖楽の代表作として知られるようになった。その後、ヨーロッパ、イギリス、アメリカの多くのプロ/アマチュアの合唱団がレパートリーに加えている。

この作品は、アルフレッド・デザンクロが1932年にパリ国立音楽院に入学するためにパリに来て以来、聖楽、そしてオルガンとの接点を失うことがなかったことを想起させる。生活のために、ノートルダム・ド・ロレットの礼拝堂の主事に任命され、担当する礼拝の音楽を作曲し、1939年の戦争に動員されるまで聖歌隊のオルガンを演奏していた。1943年から1950年までルーべ音楽院の院長を務めたが、1944年5月に友人たちの結婚のために「Pater noster」を、1953年5月に甥の叙階式のために「Jam non dicam」を作曲するなど、特定の機会に典礼音楽を作曲し続けた。これらの作品は、1956年に出版された「Humble suite au cantique des créatures」、57年の「Nos autem」、58年の「Salve Regina」の3つのア・カペラ作品を除いて未発表のままなので、作曲家としての活動とは無関係と考えたのだろう。

アルフレッド・デザンクロは非常に優れたピアニストで、日常的にシューマンやラヴェル、ドビュッシーを弾いていたが、1957年から1960年頃、サン=ジャン=ドゥ=モンマルトル教会のオルガニストのジャン・バドンに代わって、夏にはオルガンを弾くこともあった。しかし、オルガン曲として残されているのは、リール音楽院の試験のために書いた「プレリュードとフーガ(1950年)」という教育的な目的のための1曲だけである。

「レクイエム・ミサ」は、彼のオルガンによる聖楽へのアプローチの集大成である。1956年に発表され、1963年に主要部分を執筆し、1967年にデュラン社からオルガン/オーケストラの両バージョンが出版された。2001年5月18日、アトランタでこの作品が別の作曲家名で新作として発表・演奏されたが(!)、歌ったことのあった観客がすぐに気づいたため、盗作が発覚した。この事件は大きなスキャンダルを引き起こし(6月7日付のワシントンポストでフィリップ・ケニコットが非常に長く詳しい記事を書いたほど)、この作品が全米にさらに広く知られることになったのは確かである。

フレデリック・デザンクロ

2022/04/29

デザンクロの生涯・作風について

Pitch organization and form in Alfred Desenclos's two saxophone works (2009, September Dawn Russell)より、デザンクロの生涯に関連した部分を翻訳。あまり真新しい情報は無いものの、体系的で良い資料で、訳す価値はあったと思う。

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デザンクロは、1912年2月7日、パリから北へ約200キロ離れたフランス北部パ・ド・カレ県のル・ポルテルで生まれた。新古典主義の作曲家たちは、ポスト・ロマン主義や無調表現主義に対抗して、伝統的な形式、ダイアトニックスケールの利用、(過去の作曲家たちの様式と比較して)不協和音の制約を緩和することにより、音楽を身近なものにしようとした。デザンクロの音楽、特にサクソフォンのための2つの作品は、デザンクロの音楽は、1920年から30年代にかけてパリで流行した新古典主義音楽「六人組」をルーツとしつつ、フランスの音楽院で学んだ影響も大きい。デザンクロは1929年、パリの北北東200キロにあるルーベの音楽院で、ピアノを中心にオルガン、音楽史、和声などを学び始めた。音楽理論は、1923年にローマ大賞を受賞したフランシス・ブスケ(1890-1942)に師事した。ブスケは主に演劇作品で知られ、伝統的な和音構成と異国音楽の表面的な引用を組み合わせていた。

1932年からデザンクロはパリ国立音楽院で学び、1936年に作曲科に入学した。パリ音楽院での初期に、デザンクロは伝統的な和声、対位法、フーガなど、上級レベルの訓練を受けていたはずである。この時期のパリ音楽院で、デザンクロと交流のあった著名な教授には、和声学のジャン・ガロン(1878-1959)、作曲学のジャン・ロジェ・デュカス(1873-1954)、対位法・フーガのノエル・ガロン(1891-1966)などがいる。和声の試験は、与えられた通奏低音上で、あるいは与えられた旋律下で作曲の練習をするものであった。例1は、上級難易度の課題のひとつである。全体の調性がイ長調の器楽的な旋律がハ音記号で記譜されている。この曲はリズムが多様であるため、対位法的なアプローチが要求され、非音階的な音程が多用されているため、半音階的なハーモニーの習得が必要である。また、小節ごとの和声付けはうまくいかない、という難易度の高さもある。学生はパッセージ全体を吟味し、必要なトニックを前もって計画しておかなければならない。デザンクロの作品は、彼が対位法に精通していることと、彼の持つ和音構成の概念とも関係があることを反映している。半音階的和声の研究により、デザンクロは半音階的な要素をより自由に用いることができるようになったのである。

デザンクロのパリ音楽院での作曲指導は、セザール・フランク(1822-1890)、グノー(1818-1893)、マスネ(1842-1912)に師事したアンリ・ビュッセル(1872-1973)であった。ブスケと同様、ビュッセルは劇音楽で知られる。フランス19世紀の伝統に位置する彼の音楽は、彼の師だけでなく、リヒャルト・ワーグナー(1813-1883)、カミーユ・サン=サーンス(1835-1921)、クロード・ドビュッシー(1862-1918)からも影響を受けたとされる。デザンクロの作曲クラスのクラスメイトには、ヴァイオリニストで作曲家のレイモン・ガロワ=モンブラン(1918-1994)、オルガニストで作曲家のジャンヌ・ドゥメシュー(1921-1968)、行政官で作曲家のマルセル・ランドフスキ(1915-1999)など、最もよく知られている人物を挙げることができる。例2は、1941年の作曲試験報告書の複製である。最初の欄には、各参加者の過去の成績と作曲の先生の名前が記載されている。この文書の2ページ目第1欄には、デザンクロが1936年から1937年、1937年から1938年、1938年から1939年、1940年から1941年の学年末に作曲試験に参加したことが記されている。この報告書には、彼の提出した作品が1937年に功労賞を、1941年に二等賞を受賞したことが記録されている。また、1939年から1940年にかけては戦争に参加したため、コンクールには参加していないことが記されている。その1年後の1942年、デザンクロはカンタータ『ピグマリオン・デリーヴル』で作曲試験の審査員から最高の評価であるローマ大賞を受賞している。この作品の和声は、デザンクロの師匠に由来すると考えてよいだろう。

ローマ大賞受賞後、デザンクロはルーベ音楽院の院長に就任し、1943年から1950年まで在任した。この間、教育や事務の仕事が中心だったが、ピアノと弦楽四重奏のための「五重奏曲(1945)」、ヴァイオリンとピアノのための「3つの小品(1946)」、チェロとピアノのための「前奏曲、カンティレーヌと終曲(1947)」、「弦楽三重奏曲(1946)」など、室内楽作品も発表する。1950年から1967年にかけて、教育や事務の仕事がなかったと思われる時期に発表された作品は、トランペットとオーケストラのための「Incentation, threne et danse(1953)」、「ヴィオラ協奏曲(1953)」、「交響曲(1956)」、「ソロ、合唱とオーケストラのためのMesse de Requiem(1962)」、彼の最も有名な作品となるサクソフォンのための2作品などを制作した。この間、デザンクロはパリ音楽院、とりわけ同僚であり友人でもあるサクソフォンの巨匠マルセル・ミュール(1901-2001)と密接な関係を保った。1942年、同音楽院にサクソフォンのクラスが復活し、マルセル・ミュールが教授として就任した。デザンクロとミュールの友情は、サクソフォンのための2つの作品の創作を促した。「PCF」は、1956年のサクソフォン科試験のためにパリ音楽院から依頼され、マルセル・ミュールに捧げられた。この作品は、教育的観点、テクニック、叙情的なフレージング、アーティキュレーション、サクソフォンのすべての音域の使用に焦点を当て、コンクール作品の基準に適合することが求められていた。また、「四重奏曲(1964年)」はマルセル・ミュール、そして彼の四重奏団に捧げられたものである。晩年の1967年から1971年にかけて、デザンクロはパリ音楽院で和声学の教師として音楽の原点に立ち返った。デザンクロがプロの音楽家としてのキャリアをスタートさせた頃、ヨーロッパの多くの作曲家が前衛的な音楽スタイル、特にセリエリズムに新たな関心を抱くようになった。メシアン(1908-1992)は、作曲家としてだけでなく教師としても、この時期のパリ前衛の中心的存在であった。1941年からパリ音楽院で和声を教え、セルジュ・ニッグ(1924-)、イヴォンヌ・ロリオ(1924-)、ピエール・ブーレーズ(1925-)ら、1950年代から60年代にかけて最も影響力のあるフランスの作曲家となる逸材を指導した。一方、1946年に始まったダルムシュタットの夏季講習は、モダニズムの代表的な作曲家たちによる講義が行われ、ヨーロッパにおけるモダニズム音楽の中心地となった。ルネ・ライボヴィッツ(1913-1972)、メシアン、エドガール・ヴァレーズ(1883-1965)、ルチアーノ・ベリオ(1925-2003)、ピエール・ブーレーズ、カールハインツ・シュトックハウゼン(1928-2007)らが参加した。しかし、デザンクローはセリエリズムを受け入れず、1950年代と1960年代に発表した成熟した作品において「師たちの音楽言語で自分自身を表現した」のである。1950年代と60年代の彼の作品は、彼の教師のスタイルを超えたとしても、形式的には新古典派と表現するのが最も適切である。デザンクロは1971年3月3日、20世紀の新古典派作曲家の中で最も有名なイーゴリ・ストラヴィンスキーの死の約1カ月前に死去した。デザンクロはほとんど作品を発表していないが、「彼の作品はどれも深い考察の結果である」と評される。サクソフォンのための彼の2つの作品は、この楽器のための芸術音楽の規範として永久的な地位を獲得している。ミュールはデザンクロについて、「彼の作品が少なかったのは、彼がしばしば自分の音楽は十分でないと感じていたからだ。「PCF」と「四重奏曲」がその証拠である」と述べている。

例1

例2-1

例2-2

2022/04/28

マルタン「バラード」のミュンヘン国際コンクール録音(?)

Swiss.infoに、情報無しにポンと投稿されているこちらのマルタン「バラード」の録音。

完全断定はできないものの、アレクサンドル・ドワジー氏が2001年ミュンヘン国際音楽コンクールのサクソフォン部門で1位無しの2位を獲得した際の録音と思われる。1位ではなく、1位無しの2位になった理由が、最終部をオクターブ下げたことにあるとも言われているが、果たして。

https://www.swissinfo.ch/eng/multimedia/martin--ballade-for-saxophone-and-orchestra/31813726

2022/04/24

フェルリングのエチュード(サクソフォン版)成立の頃

マルセル・ミュール氏は1942年にクロード・ダルヴァンクールの要請から、パリ音楽院のサクソフォン科教授となったが、その頃はまさに第2次世界対戦真っ只中、ドイツがフランスを占領していた頃である。フランスのアーティスト達は、占領下において自身の身を守るために、ドイツ語を学び、積極的にコミュニケーションを取るようになっていたが、パリ解放後は逆にそれが仇となり、群集心理から"特別粛清委員会"なるものが組織され、占領下のドイツ軍寄りの行動・言動がやり玉にあげられて、裁判にかけられることになったそうだ。

残念ながら、その裁判記録は大部分が欠落し、果たしてミュール氏自身がその場に引き出されたかどうかも定かでない。しかし、この一連の動きから(デファイエの証言によれば)ミュール氏は4年間、演奏自粛せざるを得なくなったそうだ。

この間、自宅に閉じこもっている際に完成させたのが、「フェルリング:サクソフォンのための48の練習曲 + ミュール:各種調性の新しい12の練習曲 増補改訂版」である。ミュール氏自身のコメントとして、「長い間、家に閉じこもっていたからこそ、このプロジェクトを完成させることができ、長年の夢を実現させることができたのです」との言葉も残されている。有名なエチュードだが、このような成立経緯があるとは知らなかった。

参考文献:Pour une histoire du saxophone et des saxophonistes Livre3 (J.M.Londeix)

2022/04/23

映画音楽とマルセル・ミュール(五重奏/映像)


ミケランジェロ・アントニオーニ監督「La Signora senza camelie(伊 1952)」の音楽には、サクソフォンが大胆に取り入れられている。作曲はGiovanni Fuscoという人物で、アントニオーニ監督の映画への音楽提供で名を馳せた人物とのこと。

「Cronaca di un amore(伊 1950)」の音楽に、マルセル・ミュール氏が独奏で参加していることは以前の記事で述べたが、こちらの映画ではなんと演奏者のクレジットがQuintetto di sassofoni Marcel Muleとなっている。ミュール四重奏団ではなく、ミュール五重奏団、というのは初めて聴いたのだが、一説によればミュール四重奏団をベースに、五人目としてダニエル・デファイエ氏を迎えた臨時編成との情報もある(「Le chant du cinema francais(SAXIANA)」より)。スコア上、それほどテクニカルさは無いが、しっとりと多重奏で奏でられる演奏は、程よい雰囲気を醸し出し、映像に華を添えている。

ミュール氏の録音は、クラシック編曲物やオリジナル作品など、SP時代~LP時代に非常に多くの録音が制作され、かなりの量の復刻が進んでいる。しかしながら、映画音楽方面を辿るとまだまだ知られざる録音が出てくるのだ。演奏者としてクレジットされているもの、他に無いかな…。

数年前にネット界隈を騒がせたのは、「Dans les Rues(仏 1933)」で、ここではミュール氏自身がダンスバンドメンバーとして、一瞬映像に登場している。ミュール氏の演奏姿(アフレコだとは思うが…)を見ることができる数少ない映像の一つである。

デザンクロ「レクイエム」の解説文訳

アルフレッド・デザンクロの合唱曲集「Desenclos: Requiem(HORTUS 009)」の、ライナーの簡易翻訳。高尚な言い回し(?)が多く、入手当時は、訳して読むことを諦めてしまっていたのだが、OCR/機械翻訳の進化もあり、再トライ。本当に良い時代だ。

ごく短い解説文ながら、フランスの音楽界におけるレクイエムの「伝統」を、体系的に俯瞰しながら知識を得ることができる資料だと思う。

「交響曲」「五重奏曲」を"世俗的"と言い切っているのが少し面白かった。一瞬違和感を感じたあとに、まあ、そりゃそうだよな、と。我々が今日、クラシック音楽、として有難がって聴いている音楽のほとんどは、宗教音楽からすれば"世俗的"なのだ。

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「フレンチ・レクイエム」の伝統は、確実に存在するのです。フレンチ・レクイエムの作曲家たちは、音楽的、宗教的、哲学的な概念に、見えない糸で導かれているようで、それらは時に対立しながらも、最終的には不思議なほど首尾一貫したコーパスを形成しているのです。(訳注:コーパスとは、一般的に、言語学において使われる単語で、自然言語処理の研究用に、言語の文章を構造化・集積・ラベルを付与したもの)

この伝統の出発点をたどると、フランス郵政公社社長アルフレッド・リボンの遺言に行き着きます。カミーユ・サン=サーンスは、リボンのためにレクイエムを作曲することを条件に10万フランの金を遺贈されたのである。1878年、リボンの遺志は実現しました。

この瞬間、モーツァルトの「黒衣の男」は、フランス共和国の高級官僚に取って代わられました(「黒衣の男」と違いその正体に謎などありません)。サン=サーンスの「レクイエム」は、典礼向けと演奏会向けの中間に位置する作品として、このジャンルの境界部分を画定しているのです。サン=サーンスは、テキスト以外にも、典礼の簡潔さ、細部へのこだわり、パリの大きな教区教会の習慣(大オルガン、合唱オルガン、ハープの使用)に由来する非典礼的な楽器編成を継承しています。このように彼は、ベルリオーズやヴェルディの大規模な娯楽作品に背を向けると同時に、それ以前の多くの作曲家の実用一辺倒の作品から可能な限り距離を置いたのです。その結果、徹底的に完成され、洗練された、非常に個人的なスタイルの特徴をすべて備えた、ユニークな音楽が誕生しました。10年前に書かれたリストの「レクイエム」の中の「オロ・サプレックス」が、サン=サーンスに直接インスピレーションを与えており、サン=サーンス本人もそのことを認めています。

さらにその10年後、サン=サーンスの親友であったフォーレがレクイエムを作曲することになります。しかし、このレクイエムは、無名の教区民の葬儀の際に初演されたマドレーヌ寺院の器楽と声楽のリソースを尊重し、(当初、器楽としてはオルガンしか使わない)実用的な作品に仕上がっていました。

アルフレッド・リボンの遺産は、サン=サーンスを「マドレーヌ寺院のオルガンへの隷属」から解放したものだったのです。同じ「隷属」に縛られていたフォーレは、母の死が彼に与えた苦しみを「レクイエム」で表現しました。しかし、それは正反対の原因による鏡像のようなもので、結局はサン=サーンスの作品に近いものとなってしまいました。

サン=サーンスの「レクイエム」はすぐに忘れ去られてしまいましたが、そのオリジナリティの高さが仇となったのでしょう。フォーレの作品も、出版社であるハメル社の介入がなければ、おそらく同じ運命をたどっていたことでしょう。1876年にイタリア劇場で初演されたヴェルディの「レクイエム」が大成功を収めたことを思い出したのか、出版元のハメル社は、フルオーケストラのための版を要求してきたのです。1900年の万国博覧会でトロカデロ・コンサートホールで初演されたフォーレの「レクイエム」は、作曲者の宗教的無関心によって、信者のための一種の典礼となりました。サン=サーンス~フォーレの、一連の方向性は、モーリス・デュリュフレが、それを真の「伝統」に変えなければ、単なる偶然の産物であり続けたことでしょう。

1947年に作曲されたデュリュフレの「レクイエム」は、再び大編成のオーケストラの利用、演奏会での初演というレクイエムの形式をとりました。「ピエ・イエズ」ではソプラノの甘いソロ、「リベラ・ミー」では合唱の高貴なユニゾンの旋律というように、ある種の決まり文句を使う点で、フォーレと同じようなインスピレーションを受けます。

しかし、デュリュフレは、1948年当時は空っぽの殻のように見えたものに生命を吹き込むような、新しいものを導入しました。この聖歌は間違いなく、デュリュフレにとって戦闘的な信仰の象徴であったのです。この偉大なレクイエムは、バックグラウンドへ回ったことで重要性を失っていた「テキスト」の扱いが、サン=サーンスやフォーレのそれとは違うのです。その真の意味を再発見しなければならないと断言したデュリュフレは、教会の奉仕者でありながら教会における宗教的信念を欠いていたサン=サーンスやフォーレの懐疑主義(まさに無神論)から意図的に距離を置いています。しかし、デュリュフレは、「演奏会用レクイエム」という開かれた扉にサインをすることを望まなかったのです。デュリュフレの「レクイエム」は、彼の信仰と矛盾するどころか、彼の信仰を強化するものだったのです。オリヴィエ・メシアンは、コンサートホールで初演された「アセンション」を聴いて驚いたジャーナリストに対して、「神はどこにでもいる」と自分を正当化するように言いました。

1963年、アルフレッド・デザンクロは、1世紀前にサン=サーンスが打ち出した主題に、彼なりのヴァリエーションを加えることになりました。

アルフレッド・デザンクロの運命は、多くの点で模範的です。1912年、ポルテル(パ・ド・カレー)の10人家族の7番目の子供として生まれた彼は、家計を助けるために20歳まで工業デザイナーとして働かなければならなかったのです。しかし、1929年にルーベーのコンセルヴァトワールに入学し、それまでアマチュアとして演奏していたピアノを学びました。デザイナーとしての仕事を続けながら、ピアノ、オルガン、和声、音楽史の分野で数々の賞を受賞し、粘り強さを発揮しました。わずか3年間で身につけた知識は確かなものだったようで、1932年にパリ音楽院に入学することができました。パリ音楽院では、和声、フーガ、作曲、伴奏の各賞を受賞し、1942年にはローマ大賞を受賞しています。

戦後すぐのパリの音楽生活は、不思議なほど活気に満ちていました。新古典派は、この時期、音楽専門誌を中心に猛烈な反発を受けましたが、デザンクロは、まさにその新古典派に身を置いていました。デザンクロは論争の中に身を置くことことを拒み、その繊細さと皮肉のセンスのおかげで、精神の自由を保つことに成功しました。彼は、学問的な訓練の質を放棄することなく(そのおかげで経済的な問題も解決できたのです)、自分の限界を無視することなく、「ローマ賞を受賞した後に作曲を始めた」ことを特に告白しています。

デザンクロが宗教音楽に初めて接したのは、音楽院在学中のことです。その後、パリのノートルダム・ド・ロレットの合唱団長となりました。この教会のために作曲したモテットは、サン=サーンスやフォーレの伝統を受け継ぎ、洗練された和声とおおらかな旋律感覚が、当盤収録の「アヴェ・マリア」、二つの「オ・サルタリス」、「サンクトゥス」によく表れています。

一方、「アニュス・デイ」における、ドイツ的ロマンティシズムには驚かされます。死者のためのミサ曲のテキストに従ったこの曲は、おそらくレクイエムの下書きであり、もし完成させていたら、きっと並外れたものになっていたことでしょう。

しかし、デザンクロが「音楽」の作曲を始めたのは、ローマ賞の頃からだと、彼は言っています…。

1944年の短い「父なる神」を除き、五重奏曲、協奏曲、交響曲など世俗的な作品をいくつか書いた後、デザンクロは再び聖楽に興味を持ち、1958年にアカペラの合唱のための2曲を作曲しました。1958年、アカペラ合唱のための2つの作品「Nos autem」と「サルヴェ・レジーナ」を作曲した。1963年の「レクイエム」は、若いころのモテットとはまったく異なる作風を確立しています。

フォーレの最終版の「レクイエム」やデュリュフレの「レクイエム」と同様、デザンクロの「レクイエム」の原曲はフルオーケストラの力を借りて、ストレートに世俗的な枠組みで演奏されています。「サンクトゥス」では、ラヴェルの「ダフニス」のように、合唱がオーケストラの中に入り込んでしまうという、まさに世俗的な作品です。しかし、「サンクトゥス」は例外で、他の楽章では、オーケストラはあくまで背景にとどまり、声楽を引き立たせる繊細な役回りとなっています。サン・サーンスの「レクイエム」のように、合唱団はソロの4人組をモノポライズし、17世紀のヴェルサイユのモテットのような「小さな合唱団」的存在になるのです。

デザンクロにとって、バランスは本質的な美徳であるように思われます。ある種の決まり事(フォーレやデュリュフレ以来「必須」とされる「リベラ・メ」のユニゾン・クワイアの長いフレーズ)を尊重する一方で、例えば「ピエ・イエズ」の甘いソプラノ・ソロを避け、その代わりに耳障りな「中世」風のハーモニーを歌う合唱団を入れるなど、他の決まり事も破っているのです。デザンクロは、「死者のためのミサ曲」のグレゴリオ的モチーフの引用を断念した(デュルフルは間違いなくこのテーマをやり尽くした)ものの、その要素を用いて独自の主題を作り出すことに躊躇しませんでした(短いアンビトゥス、メリスマ、「準グレゴリオ」の楽譜上の表示など)。さらに他の点として、デザンクロは和声の表現力に、最大限の役割を与えています。平行和音の多用は、ある意味でジャズの要素を想起させますが、実際にはレクイエムとしては新しいものです。和声と多声の効果を交互に使うことで、デザンクロは前衛的でありながら逆行しない独自のスタイルを作り上げ、尊大でもドライでもない直接的な表現を実現しています。

「作曲するとき、私は特定の目標を持っていません」とデザンクロは語っています。あらゆるシステムに反抗し、既成概念にとらわれず、伝統と個人的なイニシアチブを賢く利用することに身を任せたのです。

フォーレの告解、デュリュフレの信仰の聖堂を経て、デザンクロが再び挑んだのはサン=サーンスがその作品で目指したものであり、フレンチ・レクイエムの1世紀を締めくくるものです。この作品が懐疑論者のものでないとして、少なくとも、明らかな「ヒューマニズム」に支えられていることは確かでしょう。

ヴァンサン・ジェンヴラン

2022/04/20

「The Solitary Saxophone」ライナーよりベリオxドゥラングル

言わずとしれた名盤、クロード・ドゥラングル氏の「The Solitaty Saxophone(BIS-640)」。ライナーノーツには、ドゥラングル氏とベリオ氏の短い対談が記載されているが、簡単に日本語訳してみた。

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ルチアーノ・ベリオを訪ねて

パリでの打ち合わせが無くなり、私は、1993年6月22日、フィレンツェのルチアーノ・ベリオのスタジオを訪ねた。私たちは午前中ずっと、オーボエのためのセクエンツァVIIのソプラノサクソフォン版であるセクエンツァVIIbの最終的なディテールの修正に取り組んでいたのだ。

フィレンツェを去る前に、私は彼との短いインタビューを記録することができた。

クロード・ドゥラングル:シャトレ座でお会いして、私からあなたへサクソフォン版の作成を提案してから、もう2年以上経ちましたね。この作業は長いものでした。とはいえ、私は、この作品の真の精神から逸脱してしまうを非常に恐れていました。結果、どうだったでしょうか?

ルチアーノ・ベリオ:あなたの演奏は素晴らしいプレゼントであり、非の打ちどころのない演奏でした。ソプラノサクソフォンが、オーボエのための原曲の特徴を、私が好むレベルまで拡大、増幅していることに、私は大変興味を持ちました。私は、オーボエと11弦のための「シュマンIV」を拡大し、ソプラノサクソフォンと23弦のための「シュマン」を作ろうとしているのです。私はサクソフォンのことがもともと好きなのです。ルーツがジャズなどの口承音楽のようなところにあるため、ずっと好きだったのです。サクソフォンは、さまざまなキャラクターを生み出すことができます。オーケストラでは、木管と金管をつなぐ柔軟で美しい橋渡し役でありながら、独自の個性も持っているので、私は頻繁にサクソフォンを使います。サクソフォン・ファミリーを取り入れると、力強い個性が発揮され、オーケストラの統一感を高めるのに一役買うのです。

CD:オーケストラの中でのサクソフォンの位置づけはどういったものでしょうか?

LB:サクソフォンはとても柔軟な楽器で、金管楽器に対抗できる音のパワーを持っています。サクソフォンはいろいろな面を持つ楽器です。ですから、私はオーケストラの中でも、ソロの楽器としても使いたいのです。

CD:アルト・サクソフォン用の「セクエンツァIXb」をベースにした「シュマン」の制作も構想されているとのことですが。

LB:あなたの演奏に説得されたのです。将来、時間ができたら取り組んでみようと思っています。すでに構想はできつつあります。今、あなたの演奏を聴いて、あなたへの感謝の気持ちが芽生えました。

CD : サクソフォンを教えるにあたって、何かアドバイスはありますか?現代の作曲家の音楽に対応できるようになるために、学生たちに何を教えるべきでしょうか?

LB:レパートリーはまだそれほど多くありませんが、サクソフォンを学ぶ若い人たちには、非常に柔軟なアプローチを教えるべきだと思います。たとえば、「過剰なヴィブラートをかける、古いフランス流の楽器」という位置づけから切り離してしまうことです。同様に、蔓延る悪い音楽からも…。音楽的な精神の柔軟性、それが最も重要なことなのです。

CD : ダイナミクスや色彩の観点から、可能性を最大限に引き出すべきと考えていらっしゃるのでしょうか。

LB:そうです。あなたのソプラノサクソフォンで演奏されたセクエンツァで私が大いに驚いたのは、そのダイナミックレンジの広さと色彩感です。これは予想外だったと言わざるを得ません。素晴らしいプレゼントをいただきました。

CD:親切なコメント、ありがとうございます。

2022/04/17

木下直人さんから(ミュール新発見盤)

木下直人さんから、マルセル・ミュールの新発見盤の復刻CDを送っていただいた(いつもありがとうございます!)。

Polydor Disque 522.956という型番が付いており、演奏者欄にAndre Messier et son orchestre "FANTINITZA", Solo de saxophone Marcel Muleの記載がある。


このAndre Messierという人(演奏者であり、収録曲のうち一方の作曲者でもある)は、映画音楽の作曲者として有名らしく、フィルモグラフィを調べてみると、The Forest of Farewell (1952)、The Orphans of Saint-Vaast (1949)、Love Around the Clock (1943)、L'Etrange Nuit de Noël (1939)、Le Château des quatre obèses (1939)、といった映画名が挙がる。

このSPには、Andre Messierの「Cendrillon Moderne: Valse-ballet」と、Andrew Walrenceの「Leger Tourbillon: Intermezzo valse」という2曲が片面ずつ収録されている。曲の素性などは、インターネット上でかなり調べてはみたのだが、どうも不確かな情報しか出てこない。また、Andre MessierとAndrew Walrenceが同一人物だと主張する情報もあり、なかなか情報を整理できなかったのが悔やまれる。もう少し調べてみたいのだが、純音楽というよりも、映画音楽的な方面から調べないと難しそうだ…。

内容は、極めてポピュラー寄りの、ダンスミュージックといった装い。ミュールのサクソフォンの軽やかさ、美しさ、気品は、頭一つ抜けていると感じる。ミュールはダンスバンドなどで演奏しており、ヴィブラートをその経験から取り込み、クラシック音楽へと輸入していったとされているが、こういった演奏を聴くと、余技として単純に軽々しく演奏していたわけではなく、ミュールは、天性・努力の賜物としての一級品の演奏を、どんな場へも持ち込んだのだなと、実感する。

SPからの明瞭な復刻は、木下直人さん独自のシステムによるもの。ノイズは敢えて無修正であり、しかしながら演奏そのものに耳を遣るとノイズは全く気にならないどころか、むしろ市販品のノイズ除去盤がリマスタリング段階でいかに無神経にノイズを消しているかが分かってしまい、木下さんの盤以外聴けなくなってしまう…。

2022/04/10

容易に入手可能なデファイエ氏の録音

公式な復刻が進んでいるとは言い難いダニエル・デファイエ氏の録音だが、今現在、比較的入手しやすいデファイエ氏の録音を下記に挙げておく。


「20th Century Music for Saxophone and Piano(SWR Classical Archive SWR10331)」
デジタル配信の時代になって急に登場した録音。SWRとは、南西ドイツ放送のことで、SWR Classical Archiveというシリーズのひとつとしてリリースされた。おそらく、放送用録音として所蔵されていたテープからの復刻であろう。1958~1963年の、デファイエ氏が脂が乗った時期の見事な演奏記録で、チェレプニン「ソナティネ・スポルティヴ」や、クレストン「ソナタ」などの有名曲を交えた録音で、大変聴き応えがある。一発録りなのか、すこしアンサンブルなどは怪しい箇所も聴こえてはくる。私なんかは「これこれ!」といった感じで聴いてしまって、あまり冷静な判断を持って聴くことができないのだが、このソノリテや歌は現代にも通じるところが多いのではないだろうか。


「魅惑のサクソフォーン(King KICC-477)」
日本で録音された小品集。ピアノは山田富士子女史。元々はLPで、CD時代に復刻発売→廃盤となっていたが、2004年に再発売されて以来、カタログ落ちせずに残っている。小品とはいえ、丁寧な演奏の中に、当時のデファイエ氏が持っていた演奏の趣味の良さを存分に感じることができる。とはいえ、現代のサクソフォンを聴き慣れた耳に合うかどうか…これはぜひ、今現役でサクソフォンを学んでいる20才前後の方々に意見を伺いたいところだ。


「サクソフォーン・アンサンブルの至芸(Sony SICC 1972-3)」
2015年に突然発売された復刻盤。「サクソフォーン・アンサンブルの至芸 L'art supreme du quatuor de saxophones(1978年)」「フランス・サクソフォーン四重奏の新たなエスプリ Esprit nouveau de France saxophone quartette(1975年)」の2枚が復刻されている。長きにわたり未復刻だったこれらソニー盤は、比較的入手しやすかったEMI盤の素晴らしさもあって、文字通り伝説的な盤として「話は聞いたことがあるが中身を聴いたことがない」「リュエフの冒頭がすごいらしいが聴いたことがない」といった話を良く聞いたものだ。実際、言葉はいらないほどの名演の数々、聴いたことがなければぜひ一聴を。

2022/04/09

Pierre Hasquenophのシンフォニー・コンチェルタンテ第3番(MuleQ参加)

ピエール・ハスケノフ Pierre Hasquenoph(1922-1982)は、フランスの作曲家。初期には医学を学んだが、すぐに音楽の道に進んだ。セザール・フランク音楽院に入学し、Guy de Lioncourt (作曲と和声)、de René Alix (対位法とフーガ)、Marcel Labey (指揮法)に師事した。1950年から55年までパリ音楽院でダリウス・ミヨーやジャン・リヴィエの作曲クラスに学ぶ。ラジオ局でキャリアを積み、最初はディレクターとして(1956年)、次にRTFの交響楽部門長(1958年)、最後にORTFのService Lyrique部門(?)長(1960年)を務めた。1973年から1982年まで、フランス放送局の室内楽部門のディレクターを務めた。ハスケノフは、古今東西の流行の寄与を否定することなく、常に流派にとらわれない自由な作風を主張している(フランス語版 Wikipediaより)。

サクソフォン作品は、この「シンフォニー・コンチェルタンテ」の他にも数多い。おそらく、作曲の師であるリヴィエの影響であろう。アルトサクソフォンのための「コンチェルティーノ作品20(1960年)」、テナーサクソフォンのための「コンチェルティーノ(1976年)」、アルトサクソフォンのための「ニュルンベルク・コンチェルト」、室内オーケストラのための「インヴェンション」、サクソフォン3重奏のための「小セレナーデ」、サクソフォン4重奏のための「4声のソナタ」、サクソフォン4重奏とオーケストラのための「第4交響曲」といった具合。大規模な作品が多いが、サクソフォン界一般にあまり知られているとはいえないだろう。

「シンフォニー・コンチェルタンテ第3番」は、サクソフォン四重奏とオーケストラ(2管編成+打楽器+ピアノ)という充実した編成、そして20分以上に及ぶ長大な作品で、急緩急の3楽章(Vif, Lent et Scherzo, Vif)形式作品。マルセル・ミュール四重奏団の参加で、このような録音が残されていたことが驚きだ。ネオ・ロマンティックの典型のような作品で、サクソフォン四重奏にもかなり技巧的な演奏が求められるが、ミュール四重奏団は、フランセ「Paris! a nous deux」で聴かれるようなキレッキレの演奏で見事に要求に応えている。

https://archive.org/details/cd_french-composers-volume-20_jean-jacques-grunenwald-pierre-hasquenoph/disc1/02.+Jean-Jacques+Grunenwald+-+Symphony+Concertante+for+Saxophone+Quartet+and+Orchestra.flac

2022/04/08

ドゥラングル氏からミュール氏へのインタビュー・日本語訳

上記、ドゥラングル氏からミュール氏へのインタビュー記事を日本語訳した。機械翻訳を活用している。

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クロード・ドゥラングル(以下CD):ほぼ毎年お邪魔していますが、今日は生徒たちに頼まれたのでメモを取ります。「先生はマルセル・ミュールを知っているけど、私たちは知らない!」と言われましたので。私がやりたいことは、ある種のレガシー(遺産)を伝えることです。サクソフォンを吹くときにヴィブラートを使うようになったきっかけは、よくお話されていますね。もう一度、時系列で説明していただけますか?
マルセル・ミュール(以下MM): すべてはジャズから始まりました。1920年代初頭にパリに来たとき、私はたくさんのジャズ・オーケストラのコンサートを聴いたんです。その時の私には奇妙に聞こえるサクソフォンに対して、とても驚いたし、憤慨さえしたものです。フォリー・ベルジェールで演奏していた大男のことは今でも覚えていますが、彼はおそらくすべての音を知らないで、猛烈にソプラノを吹いていました。ちょっとショックでしたね。
でも一方で、ジャズは収入源になるし、当時は軍隊にいたので、日常生活も少しは楽になるから、始めざるを得なかったんです。こうして私は、代役としてジャズオーケストラに徐々に参加するようになったのです。何でもかんでも、ちょっとずつやっていたんです。
でも、昔ながらの優秀なサクソフォン奏者であった父から教わった音の本質を捨てることはありませんでした。父は芸術的な才能があり、素晴らしい音楽家で、楽器をとても上手に演奏していました。私は最初の手ほどきを父から受け取っていたのです。
13歳から20歳までは、父から学校の先生になれと言われていたので、音楽はやらなかったし、アマチュアとしてしかやりませんでした。私は学校の先生になり、7ヵ月後に兵役に就くためにパリに行き、その時に軍楽隊のある連隊を選ぶことが許されました。音楽家として、音楽院の仲間たちと知り合いになったのですが、その音楽院にはもちろんサクソフォンのクラスはありませんでした。中にはとても上手な人もいて、私はオーケストラで演奏するようになりました。常にアンテナを張っていないといけないし、あちこちに行くので大変でしたが、それでも当時の楽器で、ジャズオーケストラに合うような音を形にしていました。
そのうち、ジャズで流行っている、波打つようなヴィブラートも出せるようになりました。私は優秀なジャズ演奏家というレッテルを貼られましたが、それでも控えめな演奏でしたし、ある程度の演奏はしていましたが、私にとって最も楽しい、と思えるものではありませんでした。一方、私は自分が取り組んできたソノリティでかなり成功し、2、3年後にはすでにギャルド・レピュブリケーヌ吹奏楽団の仲間入りをしていました。黒人の指揮者がいて、彼はすぐに私を受け入れて私を注目すべき存在とみなしてくれました。彼は私をとても気に入ってくれて、私は自分が見つけたこの音を改善しようとしました。当時、私たちは非常にメロディックなものを演奏していました。アメリカの作曲家、アーヴィング・バーリンの作品を演奏したり、ボストンを演奏したり、ブルースと呼ばれるスローなものを演奏したりしました。
新しいソノリティを試すことができたし、私はこの音楽でとてもうまくいっていました。ギャルドではまだ、音にヴィブラートをかけずに演奏していました。

C.D. : 使わせてもらえなかったのでしょうか?
M.M. : まあ、そうだったかもしれないですね。でも、使おうともしなかったし、使う機会もなかったんです。私は1923年にギャルドに入団し、アリックス・コンベルの父親であるフランソワ・コンベルに代わって、すぐにソリストになりました。彼は私のことを知っていて、ギャルドに入るように勧めてくれたのです。私は試験に合格し、入団したのですが、誰も私が誰であるかを知らなかったので、大変驚きました。私は興味深いソリストとみなされ、注目されました。私は完璧に演奏していると言われ、認められ、楽しまれていました。
数年が過ぎましたが、ギャルドでは私は何も変わっていませんでした。私はオペラ・コミークで演奏していましたが、少なくとも月に一度、時にはもっと多く、ウェルテルばかり演奏していました。また、コロンヌ管、パドルー管、ラムルー管、ソシエテなど、あちこちのオーケストラでも演奏していました。どういうわけか、私は公式のサクソフォン奏者のようなものでしたが、ジャズ音楽ではなく、ヴィブラートをかけない、別の方法で演奏していました。
1928年、オペラ・コミークで、私をジャズサクソフォン奏者として知っている優秀な音楽家(ピアニスト)が作曲したバレエを演奏しました。フォックス・トロットやブルースなど、名前は忘れましたが、当時流行っていた舞曲を演奏しました。そのブルースの中で、彼はサクソフォンのために非常に表情豊かで優れたフレーズを書きました。私はそれがどのように演奏されるのかすぐに理解できたし、彼のことも知っていましたが、まだそのことについて話す機会がなかったのです。リハーサルの時、私はいつも通り、ウェルテルと同じように演奏した。すると彼は、「私はこの曲をとても表情豊かに書いたんだ、つまりヴィブラートをかけてほしいんだよ」と言うので、「でもここではこのような演奏には慣れていない、ジャズオーケストラではなくシンフォニックオーケストラなんだ」と言うと、「分かっている。しかしそんなことは関係ない、いつもジャズでやっているように演奏すればいいんだ」と。
「わかった、あなたが決めたのなら…」私は、これはスキャンダルになると思いました。そして、このフレーズを、控えめに演奏したところ、彼はとても気に入ったようでした。ミュージシャンたちも感心して、熱心に話し合っているのが聞こえてきました。中には、私が新しい音楽家で、まるで同じ人が演奏しているとは思えない、と言う人もいました。スキャンダルを恐れていましたが、成功したのです。そして、一緒にギャルドにいた音楽仲間や、後ろに座っていた音楽家たちから、「ギャルドでもこんな風に演奏したらいいよ」と言われました。でも私は、「同じような音楽ではないので、無理です」と言いました。
でも、それで考えさせられ、少しずつ、他の種類の音楽でもヴィブラートを使うようになったんです。ラヴェルの「ボレロ」はこうやって演奏しました。

C.D. : そしてムソルグスキー/ラヴェル編「古城」では?
M.M. : いや、「古城」はヴィブラートをかけずに様々な指揮者と演奏し、後になってからヴィブラートをかけて演奏するようになりました。その後、徐々にギャルドで使い始めましたが、本当に熱狂的なことでした。表現力という点では完全に変わりました。自分では表現力豊かに演奏しているつもりでしたが、完全に満足していたわけではありません。当時、モイーズのように古典的な奏法をするフルート奏者がいたことも知っておかなければなりません。

C.D. : ホルン奏者はヴィブラートを使っていたのでしょうか?
M.M. : オペラ座ではデヴミやヴィアレも使っていましたよ。

C.D. : 彼らにとってはジャズの影響ではなかったのでしょうか?
M.M. : 全く違いますね。表現の必要性からだったんです。オーボエ奏者の中にもヴィブラートを使っている人がいました。ギャルドで演奏していた一人は完璧に波打った音を出していて、とても美しかったですよ。ラムルー管弦楽団でもそうでしたが、やはりほとんどの人がまっすぐな音で吹いていて、それが解釈の情熱につながり、弦楽器の音に近い情感がありました。
私はといえば、まだまだ課題が山積していました。しかし、何とか自分を確立することができたのです。パリで最も偉大なソリストのひとりとみなされ、私が演奏するたびに驚きと感動がありました。この変化が起きて、まったく違うものになったのです。素晴らしい進化だったと思います。そして面白いことに、このバレエ組曲の名前は「Evolution(進化)」という名前がついているんですよ!(笑)。
それから何年もの間、私と同じように演奏したいという音楽家たちから手紙が届き、私はそれを説明していったのです。

C.D. : では、どのように説明したのですか?
M.M. : 私がやっていたヴィブラートはある種のスピードに対応するもので、それを体系化したのです。そして、最初はもちろん長い音で作業し、次にフレーズで使うように、例えばフェルリングの教本では、優れた表現手段であり、どんな形の音楽のフレージングでも準備できる極めてシンプルな曲なので、そのまま使わなければならないとアドバイスしました。そして私は、他の人にこの曲を演奏させることで、自分自身も多くのことを学んでいることに気付きました。生徒たちからも多くのことを学びました。
私は自分がやっていることが正しいと確信していたので、堂々とこれを教えましたし、私が教えていた生徒たちは熱心で、私の意見に賛同し、好意を示してくれました。
ギャルドでも、私がこれを押しつけることに納得していない音楽家も何人かいましたが、ほとんどの音楽家はこれを認めてくれました。それで、私はパリで一番のソリストになったのです。こうして、サクソフォンに陽が当たったのです!
私が課していたこと、そして今も教えているとは、平均して1分間に300回の振動が通常速度であること、です。ヴィブラートは高い音と低い音で構成されているので、ある一定のスピードに合わせ、音を少し下げなければなりません。私は以前、生徒たちにヴィブラートをかけない音と、同じ指の位置、同じ口の位置で低い音を弾かせたことがあります。そして、徐々にスピードを上げ、1分間に300個の振動が出るようにするのです。これが最初のステップ、練習の始まりだが、カウントすることが強迫観念や制限にならないように気をつけなければなりません。メトロノームを75にセットすれば、1拍4振動になります。100にセットすれば1拍3振動になり、150にセットすれば2振動になります。少し難しいのは、60に設定すると5振動になります。でも、1人でとても上手にできます。 この作業をやってから、メロディックなフレーズに応用するように、常にスピードをコントロールしながら、生徒たちにアドバイスしていました。速すぎてもいけないし、特に遅すぎてもいけない。そうすると、楽器奏者や低音ボイスの人たちが時々耳にする「ワウワウ」と同じように聞こえてしまうからです。私の知り合いに、信じられないほど機敏で滑らかな演奏をするフルート奏者がいましたが、ある日、ヴィブラートをメトロノームでコントロールの練習をしていると聞いて、とても驚いていた。
結局のところ、なぜメトロノームを使うのか?と思われるかもしれません。例えば、ある学生はとても上手に弾くのですが、私から見てヴィブラートがかかりすぎていて、何とかスピードを落とさせようと必死でした。彼がヴィブラートをうまく制御できたとき、とても美しい演奏になりました。すると決まって私は尋ねるのです。「いいね、でもなぜだろう?」
以上が私の意見でしたし、今でもそう思っています。このときから、この楽器は多くの人に受け入れられるようになったのです。では、なぜ私だったのでしょう?
ギャルドのソリストとして、オーケストラの中でソリストが欲しいと言われれば、私を指名するわけですから、ヴィブラートを押し付けるようなものです。私の功績は、それを分析したことでしょう。私は、素晴らしいソノリティを奏でる多くの人々を知っていますし、今も知っています。しかし、彼らは自分のしていることを本当に理解しておらず、テクニックを体系化することができなかったのです。彼らは自分のテクニックを体系化することができなかったのです。一方、何年か前に読んだ、私の孫娘でヴァイオリニストのナタリーのメソッドブックには、ヴィブラートの仕事は体系化されていると書いてありました。スピードについては、サクソフォンとは少し違いますが、それほど大きな違いもありません。
これが、この楽器の成功の物語であり、その雄弁さと声の物語なのです!
初めてイベールの「コンチェルティーノ・ダ・カメラ」を演奏したのは、ラジオの収録で、パドルー管弦楽団の指揮者ルネ・バトンと共演した時です。彼は私にこう言いました。「君が演奏すると、まるで女性の声、ソプラノの声のように聞こえるのが面白いね」。彼はこのように聞こえたようですが、私が求めていた結果だったので、嬉しく思いました。私は幸運にも、ミスをすることなくコントロールすることができました。

C.D. :そして、それは広く認められるに至ったのですね。
M.M. : そうです。まったく。信じられないほどの成功を収めましたよ。例えば、ダリウス・ミヨー(彼とはよく共演しました)やジャック・イベールは、映画のオープニングでラルゲットを使ったことがあります。彼は非常に特殊な色彩を要求し、もちろんヴィブラートもかけなければなりませんでした。
だから何度か弾いてみて、彼が求めているのはある種の音色なのだと感じました。そして、最終的に完成したのが、この曲です。彼は私に「本当に感動した」と言ってくれました。
イベール「放蕩の騎士」では、イベールはサクソフォンに重要な役割を与えました。オペラ座で初めて演奏したとき、作曲者の名前が発表された後、ある音楽家が「サクソフォンの独奏はマルセル・ミュールが担当しました」と付け加えました。いかにサクソフォンに重要な役割が与えられた曲であったかがわかるでしょう。
その夜、ヴァイオリンのソリスト、当時はヘンリー・メルケルがお祝いに駆けつけてくれたのですが、その時の人々の熱狂ぶりはすさまじかった。
私が国立管弦楽団でオーボエのソロを演奏したとき、何人かの音楽家が「今日は君が教えてくれるのか」と言いました。つまり、この楽器のインパクトは絶大でした。スイス、戦争直前のドイツ、イギリス、オランダ......と、必然的に国境を越えなければならなりませんでした。
ジャック・イベールについて、シガード・ラッシャーとのエピソードを紹介したいです。ある人がASSAFRAの雑誌に、私はなぜかシガード・ラッシャーに嫉妬していると書いていました。まるで私が彼に嫉妬しているかのようにね。私はその人たちが間違っているなどとは口が裂けても言えませんでした。彼はつい最近、私のことを訪ねてきました。私たちは1970年にジュネーブで審査員をしていて、簡単に言葉を交わしたことがあります。でも、私は彼に嫉妬していませんし、彼も私に嫉妬していません。
彼は非常に高い音域でジャック・イベールを大いに感心させました。
私は1932年、ロシア協会のオーディションで彼に会いました。グラズノフの「四重奏曲作品109」が演奏された。当時、彼は自己紹介で、コペンハーゲンで教師をしている、と言っていました。「私はサクソフォンで4オクターブ演奏します」と彼は言い、ジャック・イベールはとても感心していました。
イベールはアルティッシモの音域に驚きましたが、彼はそこから考えをもとに戻したようです。ある日、彼は私のところにやってきて、協奏曲を書いたと言った。私はラルゲットを聴いて、「非常に高い音域が必要となるが、これは私の領域ではない」と言いました。彼も「特に必要ない」と、必然性を感じてはいなかったようです。それで、ラルゲットをあのように演奏したのですが、ジュネーブで、イベールはその方が好きだと言っていました。

C.D. : サクソフォンの演奏はどのようにして習得したのでしょうか?
M.M. : サクソフォンは独学で学んだのではありません。大きな助けを借りたんです。父は私にサクソフォンの吹き方を教えてくれ、最初の良い手ほどきとガイドラインを与えてくれた。父はある種の芸術的な観点を持っていました。父は私に楽器の上で歌わせましたが、無表情で歌わせました。自分の中に表現があっても、他の人がそれを楽しめない、それが違いでした。しかし、ヴィブラートを使えば、誰もがそれを楽しむことができる。自分が何をしているのか、わかっていなければなりません。

C.D. : お父様の音楽教育はどのようなものだったのでしょうか?
M.M. : 父は軍楽隊の人しか知らなかったんです。最初は地元の先生が教えてくれて、その後は自分で練習していきました。

C.D. : 他の人から演奏を教わったのでしょうか?
M.M. : いいえ、でも9歳の時にヴァイオリンを始めて、地方の先生によく教わりました。パリに来たとき、偉大なヴァイオリニストと一緒に演奏する機会に恵まれ、解釈の面で多くのことを発見することができました。

C.D. : そして、そのテクニックをサクソフォンに持ち込んだのですね。
もちろん、サクソフォンでもそうしたい気持ちはありましたたよ。ヴァイオリンでは最も暖かく表現力のある演奏ができましたが、サクソフォンではそうはいかなかったんです。でも一方で、先ほどのオーボエ奏者を聴いたとき、その音に驚かされました。

C.D. : サクソフォンはヴィブラートをかけずに演奏していたわけですが、フルートやオーボエ奏者はヴィブラートをかけていたのでしょうか?
M.M. : ヴィブラートを使っていたオーボエ奏者は2、3人しかいなかった。モイーズの前にはフィリップ・ゴーベールという素晴らしいフルート奏者がいて、彼はとても暖かい音を持っていたがヴィブラートを使いませんでした。私はこのような、非常に優れた演奏をするフルート奏者をたくさん知っています。オペラ座のラヴァイヨ(?!)は心地よい音でしたが、1925年頃に演奏した他の人たち、例えばコルトやクリュネル、また国立管弦楽団のデュフレーヌのような人たちのような感情とは違っていました。非常に表現力のあるミュージシャンもいれば、特にイングリッシュホルンはお腹が痛くなるような音を出すミュージシャンもいましたよ(笑)。

C.D. : サクソフォンの教則本には、膝を使ったヴィブラート奏法が紹介されていますが...。
M.M. : 当時のライバルの一人、ヴィアールが印象づけようとしたんです。彼は「セカンドハンドの」サクソフォン奏者で、膝を使って演奏していました。彼がソプラノを吹くと、アルトの上にソプラノを乗せるような感じで、とても複雑だったんです。でも、彼はとても人気がありました。ある日、彼はドビュッシーのラプソディーを弾いたのですが、それは大成功とは言えませんでした。
彼はよくSTRARAMのコンサートに来ていました。これはオペラの合唱団長でストララムと呼ばれていた人が設立した協会です。彼は大金持ちの女性と結婚して、オーケストラを買ったんです。彼はパリの優秀な人材を集めて、自分のオーケストラに集め、指揮者としての自分をアピールしていました。ちょうど数年後にミュンシュがそうしたようにね。
それでヴィアールがいたわけですが、彼はソリストとしてはあまり成功しませんでした。私も少しはやりましたが、当時はたくさんの映画に出演していましたし、四重奏のコンサートもやっていましたが、長くは続かなかったのです。

C.D. : あなたが今日、最も重要だと考えている活動は何ですか?
M.M. : 音楽院で教えていたことは、この楽器を本当に後押ししてくれました。ビションが言うには、現在フランスには150人のサクソフォン教師がいるそうですよ。

C.D. : 四重奏団について教えてください。
M.M. : 四重奏団は1929年にジョルジュ・ショーヴェの主導で設立されました。彼はこのグループの設立と存続にとても貴重な存在でした。彼は幹事で、膨大な仕事をこなし、写譜までやってくれて、本当に気にかけてくれていました。彼はバリトンを吹いていました。この四重奏団が発展し、本格的になっていくのを目の当たりにしたとき、彼は本当に身を投じたのです。
四重奏団時代とともに変化していきました。私たちは、ギャルドから来たある要素に必ずしも満足していませんでした。私たちは彼から離れ、もう一人の音楽家も連帯して離れました。分裂したのです。
一人はロンムと呼ばれギャルドで演奏していた人、もう一人はポール・ロンビーです。ロンビーは1934年にギャルドに入りましたが、あまり満足していなかったようです。彼は四重奏に多くの投資をしました。ギャルドでの義務のために、私たちは限られた数のコンサートしか行いませんでした。
1936年、いくつかの理由で私がギャルドを辞めることにしたとき、ロンビーが私についてきました。ショーヴェは引退が近いということで辞め、ロームの代わりにシャロンが入りました。そして、「パリ・サクソフォン四重奏団」と名付けました。グールデの前には、ゴーシーとジョセがいました。その後、いろいろな変化があった。グールデが来て、彼はほとんどすべてのコンサートを担当し、彼は驚くべき話術の持ち主でした。私たちは名前を「マルセル・ミュール四重奏団」に変えました。
この四重奏団は、多くのことをやってのけました。例えば、モーツァルトの四重奏曲「不協和音」を演奏するのは無謀としか言いようがなかったですが、演奏するものがなかったのです。でも、他にやることがなかったんです。その後、少しレパートリーが増えましたが、モーツァルトを演奏した時の方が成功しました。イタリア全土で演奏しました。もちろんレパートリーも少なく、グラズノフを除けば、あまりメジャーなものではありませんでした。それでも、何とかやっていこうと思いました。ピエルネ、アブシル、ジャン・リヴィエ、ピエール・ヴェローヌなどの小品をいくつか演奏しましたが、それでも限られたレパートリーでした。
この時代には、まだ作曲家もいて、しかも優れた音楽家で、良い作品を書く人がいました。その人たちの曲を演奏することはできたし、世間にも受け入れられていました。でも、今は......。

C.D. : ラヴェルが指揮したボレロの録音を持っています。この日、あなたはそこにいたのですか?
M.M. : ラヴェルとはコンサートで共演しましたが、レコーディングで共演した覚えはないです。オペラ座でストララム指揮のアイダ・ルービンシュタイン・バレエ団のためにボレロを演奏する最初のオーディションで演奏しました。1929年のことだったと思います。

C.D. : ラヴェルは特にサクソフォンが好きだったのでしょうか?
M.M. : そう、彼はとても気に入っていましたよ。でも、彼は何も言わないし、秘密主義者だったから、彼と接触することはできませんでした。

C.D. : 彼は四重奏の演奏を聴いていたのでしょうか?
M.M. : そうです。彼の注意を引くために、彼の歌やメロディーをいくつかアレンジしておいたんです。彼はそれを聴いて、何か書こうと思っていたんだけど、病気で倒れてしまったんです。でも、誰も彼と接触することはなかったですよ。彼はステージに上がってはいたが、それを楽しんでいたわけではなかったようです。

C.D.:彼はテンポにとても厳しかったんです。トスカニーニの下宿まで行って、「サー、あなたのテンポは絶対に間違っている」と言ったそうです。
M.M. : そうそう、トスカニーニはほとんど間違えないんだけど、あの時は間違えたんだ。彼はこれを「解釈」するつもりだったんだ。彼はアッチェレランドをやっていたんだ。それは正しいことではありませんでした。
バレエは、舞台の上にダンサーを映していた。楽器が新しく介入するたびに、新しいダンサーが入ってきて、最後は舞台が混雑する。驚きましたね。

C.D. : あなたは彼と一緒に彼の「展覧会の絵」を演奏しましたか?
M.M. : いいえ、1925年頃にエミール・クーパーという指揮者と演奏し、その後モントゥーとも演奏しましたが、彼は少し速く演奏しすぎていましたね。

C.D. : もしあなたが同意してくれるなら、あなたが演奏した楽器について少し話をしましょう。1925年から1930年の間、あなたはどのようなマウスピースを使用していましたか?
M.M. : 古いマウスピースで、大きな内径と抵抗力のあるリード、そしてしっかりと開いたテーブルが特徴的なものです。これらのマウスピースは、セルマーのような楽器販売業者から供給されていました。

C.D. : このマウスピースは木でできていたのですか?
M.M. : 木製です。それからセルマーのエボナイト製マウスピース、そして私が長い間使っていたメタル製マウスピースを作ったんです。1923年、私はセルマーの楽器で演奏していました。そして、1928年頃からケノンを使うようになりました。メイヤーというクラリネット奏者で、オペラ座のバレエでサクソフォンを吹いていた人です。それで、彼の代わりに私がケノンに雇われたのです。楽器が完全に使えるわけではなかったので、しばらくはセルマーで演奏を続けていましたが、ディレクターから「使えるモデルをやってほしい」と言われました。そこで、製作工程をすべて作り直したのですが、老舗の会社で何かを変えるのは常に苦労するものですから、簡単ではありませんでした。
すでにサクソフォンがそれなりに売れていたのだ。その工場長は、サクソフォン奏者でもあり、クラリネット奏者でもある。テストを行うのは簡単なことではありませんでした。それでも、1年後にはアルトができあがり、これがなかなか好評で、私はそれを1938年まで18年間使いました。そして、セルマーに変えたのです。

C.D. : あなたはなぜケノンを辞めたのですか?
M.M. : 当時のケノンがやっていたことに満足していなかったし、セルマーからもっと面白い提案があったんです。より良い展望があったし、うまくいっているところに行くことにしたんだ。

C.D. : それで、セルマーのところではどうだったのですか?
M.M. : 難しかったですよ。マントの工場長、ルフェーヴル(後に彼の息子が後任)と取引しなければならなかったんです。このルフェーヴル氏は、非常にプロフェッショナルな人物でしたが、変革を好まず、それでも生産を維持するために変革を行わなければならなかったのです。なんとか、少しずつ変えていくことができました。
セルマーの会社は、かなり成長しました。非常によくできたビジネスでした。しかし、必ずしも私が望んでいたような形ではなかったです。そして、ヌオーが、いくつかの改良を加えてくれました。この分野は、常に改善を求めなければならない分野です。

C.D.:音楽院では、学生たちとの間で苦労はなかったのですか?
M.M. : 特に問題はなかったですね。勤勉でない学生なんていないですよ。私は、音にとても注意を払っていました。私は美しい声を聴くたびに、この300の波動があるかどうかをチェックしています。男性よりも女性の方が、とても美しく歌っている人が多いと思います。本当に素晴らしい女性の声があります。
一人は私が考えているような音で、もう一人は私がよく言うような不完全な音で、二人の音楽家を選びます。私は、必ず最初に選ばれるほうに賭けます。それは、人間にとって自然な耳の満足感ですね。
ロンデックスとのやりとりの中で、ギャップでも言いましたが、視覚的な喜びよりも、おそらくもっと強い聴覚的な喜びだと思うのです。美しい風景や壮大な絵画を前にしたとき、それは衝撃的なものです。でも、声や楽器の感動的な音を聴いたときのような満足感はないんです。
フルーティストも同じで、中には本当に素晴らしい人もいます。フランスにも優秀なホルン奏者がいましたが、ヴィブラートは時代遅れのロマン主義に属すると判断されたのでしょう。私はそれをラジオで聞きました。テヴェのような面白いホルン奏者もいましたね。最初のころは、ホルンに感情を込めることを始めたデヴミーがいて、多くの生徒を指導していました。

C.D. : 確かに現在ではホルン奏者がヴィブラートを使うことはありませんね。オーボエ奏者は使うし、フルート奏者やファゴット奏者も使う。クラリネットは使わないし、ほとんど使わない。トランペットもホルンも使わない。習慣や流行、好みのせいでしょうか?
M.M. : それは主に指導のせいだと思います。私のクラスの生徒たちは皆、ほとんど同じような音を出していたのを覚えています。

C.D. : あなたはお手本を見せましたか?
M.M. : もちろんそうだし、自分がどう弾いていたかをよく見せていましたよ。彼らはそれを見て笑うんだけど、それは正しいことです。

C.D. : 長いフレーズで?
M.M. : いえ、いつも短いフレーズが中心でしたね。

C.D. : 生徒さんの中には、重要な基本的な技術的な不足や問題に直面した人もいたのではありませんか?
M.M. : いいえ、私の教え子で、自らも教員になった人たちが教えていた生徒には問題はありませんでした。幸いなことに、私は仕事をする上で助けられました。あなたの元先生であるビションさんが一緒だったのですが、彼は素晴らしい人です。彼はローヌ・アルプ地方で素晴らしい仕事をしました。彼は自分自身を投資し、生徒のために献身的に働きました。

C.D. : キャリアの中であなたにインスピレーションを与えた人物は誰ですか?
M.M. : トスカニーニはその一人です。私は彼と一緒に演奏したことはないが、彼がオーケストラを指揮しているのを見たことがある。それは特別なもので、彼は厳格な姿勢で音楽家から最高のものを引き出していた。彼はほとんど目が見えないので、言うなれば、彼が読んだとおりのものを求めていた。彼の指揮には、他の人が到達できないようなしなやかさ、明快さがあった。そして、それはいまだに謎である。彼は非常に強い意志を持っていた。多くの人が「彼と一緒だと、他の人と同じようには遊べない」と言うでしょう。彼は非常に要求が多く、大きな影響力を持っていました。

C.D. : 1989年、あなたが音楽院で教えていたことについて調査したところ、クロード・ダルヴァンクールがフランス音楽の発展において非常に重要な役割を担っていることに気づきました。
M.M. : もちろんです。特に僕らにとっては、サクソフォンクラスを実現させた人ですからね。彼はヴェルサイユ音楽院の院長で、私は毎年サクソフォンクラスの審査に立ち会っていたんです。彼はいつも「いつになったらパリ音楽院にサクソフォンクラスができるんだ!」と言っていました。
当時、パリの音楽院長はラボーでした。彼は、私たちのサクソフォンの仕事を高く評価してくれて、「資格さえあれば、今すぐにでもクラスをつくることができる」と言っていました。しかし、彼はそれができなかったのです。
ダルヴァンクールがディレクターになった時、2ヵ月後にアポイントをお願いすると、彼はすぐに「君が来る理由はわかっている、必ず最初にやってくれ」と言ってくれました。そして、彼はその約束を守り、サクソフォンやパーカッションのクラスを作りました。彼は、政治の世界でも評判がよかったのです。戦争中でしたが、ペタン政権の美術大臣だったコルトーに助けられ、もちろん非難されましたが、彼はその人柄から多くの良いことをし、音楽家の意見を多く取り入れました。
それで、私はこのために彼に会いに行ったのです。彼とはよく一緒に演奏したし、特にチェロのフルニエとドゥラノワの「ラプソディ」を演奏したこともありました。彼はそれを真摯に受け止めてくれて、うまくいったし、おもしろかったのです。彼は時々、パリ管弦楽団を指揮していたので、よく知っています。
サクソフォンの授業は彼に聞けと言われました。彼がその創設に貢献したとしても、私は驚きません。パーカッションの授業も、パーカッションの先生であるパセローネが、彼に会いに行ってくれたんです。コルトーがいたこともありますが、プロジェクトを練り上げ、提出したのはダルヴァンクールです。

C.D. : クロード・ダルヴァンクールは、とても進取の気性に富んだ人物だったのですね。
M.M. : そう、彼は1日に1つのアイディアを持っていたと言われるほどです。でも、彼のアイデアに秩序を与えてくれるような人はいなかった。彼は、本来なら支援されるべきなのだが、それをされなかった。彼は、とても親切で寛大な人でしたね。

C.D. : 彼が音楽院のカデットオーケストラを創設したとき、彼は多くの若者を保護しました。
M.M. : 彼は素晴らしく賢い作戦を実行したんです。カデット・オーケストラのおかげで、学生たちはSTO(Service du Travail Obligatoire、義務労働奉仕)への出向を免れることができたのです。彼はとても親しみやすい人で、生徒たち全員と顔見知りでした。私たちの知る限り、彼は大恩人です。

C.D. : 彼はとても優れた音楽家でもありました。ルデュックは彼の音楽作品を再出版したばかりです。
M.M. : 彼はサクソフォンの入ったオーケストラのために「パルミエール」を書いていて、よく会う機会があったんです。また、彼はオペラ「ルシファー」を書いていて、サクソフォンのソロが素晴らしいんです。彼は本当に楽器を楽しんでいました。

C.D. : 他の先生方とは親交があったのでしょうか?
M.M. : いえ、管楽器部門の先生を除けば、クルーネル、デヴェミー、ベンヴェヌッティなど、オーケストラで知っている先生たちです。

C.D. : あなたのクラスには何人の生徒がいましたか?
M.M. : 12人。いまと同じでしたよ。一人当たり最低でも1時間は一緒にいました。それが最低ラインです。

C.C. : ミセス・ミュール、困難な瞬間に直面したことがありますか?
Mrs.Mule : いいえ、私たちには幼い子供たちがいましたし、主人はとても穏やかな人です。
M.M. : 私は彼らに音楽を学ばせたかったのです。私は彼らに仕事をさせていました、簡単なことばかりではありませんでした。彼らはピアノを習い、その後、私たちが知っているようなキャリアを積んだのです。


2022/04/06

フェルドの協奏曲と四重奏曲について(過去の曲目解説+α)

分離前のチェコスロバキアの首都、プラハに生まれたイィンドジフ・フェルド Jindřich Feld(1925 – 2007)は、子供の頃から音楽環境に恵まれた家庭で育った。イィンドジフの父親はプロフェッショナルのヴァイオリニスト・指揮者、母親もヴァイオリニストであり、フェルド一家はあのクーベリック一家(父が著名なヴァイオリニスト、息子のラファエルは国際的な指揮者)とも親交があったほど。幼いイィンドジフはその充実した環境の中でヴァイオリン、ヴィオラ、作曲を早くから学び、芸術に対する知識やセンスを身に付けていった。

初め、プラハ音楽院とプラハ芸術アカデミーで作曲を学び、1952年に卒業。その後プラハの名門、カレル大学に入学したフェルドは、音楽学、歴史学、哲学の3つの専攻において博士号を獲得、さらに5つの言語を身につけ自在に操るほどの、驚くべき多才さを発揮した。

カレル大学を卒業した後に、フェルドはようやく作曲家としての本格的な活動を開始。試行錯誤の末、母国の伝統的な音楽にヒントを得ながら、それらを西洋音楽と融合させ、オリジナリティを確立していった。数々の管弦楽、協奏曲、室内楽はどれも高い評価を得、その功績が認められて、1972年、プラハ大学において作曲科の教授に就任する。名教授として多くの優れた門下生を輩出したほか、オーストラリアやアメリカ他の音楽大学の客員教授をも務めた。1991年には、短期間ながら日本にも招聘されている。

サクソフォンの世界とフェルドのつながりは、かなりに強いもので、それはアメリカのサクソフォン奏者、ユージン・ルソーとのコラボレーションをきっかけとして始まった。1975年、ユージン・ルソーの妻であるノルマ・ルソーが、チェコ語の研究生としてプラハの大学に入学したのだ。その時ノルマは、ユージンから、「面白い音楽…特に管楽器に関するものを見つけたら、録音を送ってくれないか」との依頼を受けていた。その中で、チェコの作曲家の作品集をいくつか送ることになったのだが、そこに含まれていたのがフェルドの室内楽作品集だったのだ。その録音を聴いたルソーはフェルドの音楽に大変興味を持ち、サクソフォン作品を委嘱することになったのだと懐述している。

委嘱を受けたフェルド自身は、それまでサクソフォンのための作品を手がけたことがなく、当初はあまり乗り気でなかった。しかし、ルソーが様々なサクソフォン音楽の録音をフェルドに送ったところ、フェルドはサクソフォンの魅力に気付き、最終的に委嘱を引き受けることとなった。フェルドがルソーのために書いた、サクソフォンのための処女作は1980年に完成した「サクソフォン協奏曲」。1981年から1984年の間には、インディアナ州立大学にゲスト講師として招聘されているが、このルソーとの親交によるものではないだろうか(裏取り未)。

同じく1980年、フェルドは「サクソフォン四重奏曲」をダニエル・デファイエ四重奏団に献呈している。デファイエは、委嘱にあたり、「サクソフォン四重奏には短くて軽い室内楽作品が多いので、それに対抗して長大なサクソフォーン四重奏曲を望む」といった旨をフェルドに伝えている。実際、この時期に唯一存在していた同規模の四重奏作品は、1932年のグラズノフ「サクソフォン四重奏曲作品109」のみであろう。

デファイエ四重奏団は、1983年5月4日に世界初演を行った。その後、1985年6月25日、メリーランド州カレッジパークで開催された第8回世界サクソフォンコングレスにおいて、アメリカ初演を果たしている。

2022/04/03

サクソフォンを含む管弦楽作品:ミヨー「世界の創造」の名盤

ダニエル・デファイエ氏が管弦楽作品に参加した録音は数多い。有名なところだと、
・ヘルベルト=フォン・カラヤン指揮ベルリン・フィル:ビゼー「アルルの女」(新旧録音あり)
・ジャン・マルティノン指揮フランス国立放送管弦楽団:イベール「祝典序曲」
・ジャン=バティスト・マリ指揮パリオペラ座管弦楽団:ドリーブ「シルヴィア」
・マリウス・コンスタン指揮ドビュッシー「ラプソディ」
・アンドレ・ジョリヴェ指揮パリ音楽院管弦楽団:ジョリヴェ「ピアノ協奏曲」
・アンドレ・ジョリヴェ指揮ラムルー管弦楽団:ジョリヴェ「トランペット協奏曲第2番」
・バーンスタイン指揮フランス国立管弦楽団:ラヴェル「ボレロ」
…あたりだろうか。

デファイエ氏が奏でるサクソフォンの音色は、オーケストラの一席であっても、稀な存在感を持ち、たとえオン・マイクの録音ではなくても突き抜けて聴こえてくる。響きのみならず、テクニック、解釈etc.含めて多くのサクソフォン奏者にとってお手本になるような、そんな録音の数々だ。

その中でも、特にバーンスタイン指揮フランス国立管弦楽団のミヨー「世界の創造(EMI 1976年)」は、管弦楽曲の中のサクソフォン演奏のひとつの到達点として、必ず押さえておくべき録音といえる。いろいろな考え方はあると思うが、この響き、解釈、フレージング、ヴィブラートは、普遍的なもので、サクソフォンを学ぶ若い方に必ず知っておいてほしい、そんな内容だと思っている。「序曲」で、長音符で圧倒的な響きを披露したかと思えば、「創造の前の混沌」「男女の誕生」では他の管楽器・弦楽器との音色の融合も聴かれ、「色恋」のサクソフォンの即興風フレーズでは、他の楽器が乱痴気騒ぎを繰り広げる中で、悠々とした演奏を披露する。


同じくデファイエ氏が参加した録音として、ダリウス・ミヨー指揮シャンゼリゼ劇場管弦楽団(1956年)、ジョルジュ・プレートル指揮パリ音楽院管弦楽団(1961年)の録音もあり、そちらの演奏もぜひ聴いてほしい。驚異的なことは、どの時代の録音にあっても、ほぼサクソフォンの解釈が変わらないことだ。

関連して、もう一つ面白い私的なエピソードを。デファイエ氏参加の演奏に慣れきってしまった私としては、現代のオーケストラ、現代のサクソフォン奏者が奏でる「世界の創造」がどうもピンと来ないことが長く続いていた。もう冒頭の一音目から、コレジャナイ感がもの凄く、瞬時にして聴く気が失せる…という。そんな中、クリスチャン・リンドベルイ指揮スウェーデン・ウィンド・アンサンブル(BIS)という録音がリリースされる。サクソフォンはクロード・ドゥラングル氏。ウィンドアンサンブルだが、「世界の創造」はきちんとオリジナルの編成で演奏されている。


これはもう間違いなくピンと来ない演奏になるだろう…と思って、全く期待せずに聴き始めたところ、驚いた。間違いなく、デファイエ氏を意識した演奏だったのだ!フレーズの取り方やヴィブラートなど、1976年の演奏を現代に蘇らせようとしている録音なのだ。