マルセル・ミュール Marcel Muleが、1928年にギャルド・レピュブリケーヌ吹奏楽団の仲間と共に結成した四重奏団は、その後パリ・サクソフォン四重奏団、マルセル・ミュールサクソフォン四重奏団と名を変え、1966年までその活動を継続した。固定のメンバーではなく、数回にわたってメンバーの交代があるのだが、その最終期にバリトン・サクソフォン奏者を務めていたのがマルセル・ジョセ(ジョス) Marcel Josseである。
ジョセは1905年に生まれ、有能なチェリストとして16歳のときからBallets Sakharoff(バレエ団の管弦楽団?)のチェロ奏者として籍を置き、後にパリ・オペラ・コミーク管弦楽団へと移籍した。順風満帆に見えたジョセの音楽家としての人生だが、そのころ腕を痛め、チェロ奏者としてのキャリアと、パリ音楽院のディプロマへの入学を断念せざるを得なくなる。ここで方向転換を迫られたジョセは、サクソフォンに興味を示したのだ。1925年のことである。
当然のように、周りにはサクソフォンのための教本や先生などいない。そこでジョセは、チェロを学んだ経験を基にして、チェロの教本をサクソフォンに適用しながらこの楽器の演奏を学んだという。これはまた驚異的なことだ…ある意味、すでにしっかりとしたバックグラウンドがあるジョセならではとも言えようか。しかし、ジョセがサクソフォンに関しても飛びぬけた才能を示すことは、数年後に現実のものとなる。
彼は、サクソフォンと同時に和声と対位法を学び、プロフェッショナルなサクソフォン奏者として十分な技術を身につけた後、すでに1933年にはサクソフォンを教える側となったのだ。1935年、その高い音楽性と技術をマルセル・ミュールに認められて、四重奏団へ参加。1948年にバリトン・サクソフォン奏者となり、ミュール四重奏団の解散までバリトン吹きとしてその役割を全うした。
ジョセが演奏家としてどれだけ優れていたか、ということは、やはりマルセル・ミュール四重奏団のLPを参照することで良く分かる。ヴィブラートの使い方や跳躍を伴うフレーズにおいて、明らかにチェロ奏者のそれとわかる歌い方が散見されるのである。ちなみに、今ならオークションでも手に入れることができるようだ(私が所持しているのはMHS盤、木下さんにトランスファーしていただいたものはErato盤、オークションに出品されているのはコロムビア盤という違いはあるが、音源としては同一である)。
ここで、数年前のバンドジャーナルでクロード・ドゥラングル Claude Delangleがジョセについて語っている部分を引用してみよう。ドゥラングル教授は、パリ音楽院でダニエル・デファイエに師事する以前、リヨン音楽院でビションの門下生であった。そのビションは、ヴェルサイユ音楽院でジョセに師事した、という経験を持つ。ジョセの自身の/生徒の音色作りに対する考え方を示す、重要な証言である。
ビションは、『サクソフォンの音色は丸く、豊かで澄んでいて一定でなければいけない』といっていましたが、私は最近それをもう少し発展した考えを持つようになりました。ビションのそういった考え方は、マルセル・ジョセという先生からの影響が大きいと思います。ジョセはチェリストだったこともあって、音のつくり方など、実に具体的な説明ができる人でした管楽器の人は音色について割合とおおざっぱなイメージで捉えるのに対し、弦楽器の人はより具体的です。ですから、私の音に対する考え方も彼の影響を受けました。柔軟性を持ち、かつ安定したアンブシュアや支えられた息―そういった重要であるテクニックを残しながらも、他の楽器(ピアノ、オーボエなど)との室内楽の経験を通して、私自身が持っていたかつての考え方を広げることができたのです。それは、つまり”ほしい音が出せるようにすること”といえます。よい音は、ひとつではないということです。そして、それは”演奏相手により、必要に応じて音色を変化させること”ともいえます。
ところで、ジョセと言えばどちらかというとサクソフォンの教育者としての顔が有名ではなかろうか。ラクールがサクソフォンの初学者のために作曲した「50のエチュード」は、ジョセに献呈されているほどだ。ざっと教育者としての経歴を追うと、ヴェルサイユ音楽院、スコラ・カントルム、エコール・メルンという3つの学校で教鞭をとり、数多くの優秀な奏者を輩出したということである。前述のセルジュ・ビション Serge Bichonやギィ・ラクール Guy Lacourのほか、ベルナール・ボーフルトン Bernard Beaufreton、アンドレ・ブーン André Beun、ジャン・ルデュー Jean Ledieu…1970年代から1980年代にかけてフランスのサクソフォン界を支えた彼らは、全員がジョセの門下生なのである。
また、1972年にはサクソフォンのための作品コンクールを開き、そのコンクールに入賞した作品が出版されるようにするなど、レパートリーの開拓にも貢献したという。
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