どんな録音を聴いても、「レコーディング」「ミキシング」「マスタリング」という各観点に様々な様相が聴こえてきて面白い。今更、私などが語るほどのものでも無いが、残響の有無、マイクとの距離感、各楽器のバランス、など、同じ編成を聴き比べてみても、全く違う。種々の様相は、考え方のヴァリエーションであり、よほど事故が起こっていない限りは、最終的に、その録音を統括するプロデューサー、エンジニア、また、アーティスト本人の思考が反映されたものが生まれる。そのため、演奏そのものと同じか、時に演奏そのものの存在感を超えて、その「録音」としての存在感を決定づける要素となる。
急にこんなことを考えたのは、必要があって、無伴奏サクソフォンのためのカールハインツ・シュトックハウゼン「友情に」の種々の録音を立て続けに聴いたからだ。そもそもは、アーティスト毎の「演奏の聴き比べ」、そしてこの作品独特の、サクソフォン版が「アルトサクソフォンで演奏されているか?ソプラノサクソフォンで演奏されているか?の確認」をしようと思ったのだが、聴き進めていくにつれて「録音」が気になってしまったのだ。
作品そのものが3層のポリフォニックな書き方をされているため、残響を多く捉えた録音が決定盤的に聴こえるのかなと思いきや、そうとも限らず、デッドで、音の輪郭をくっきり残したもののほうが、フォルメルの変化を追いやすいようにも感じる。
ちなみに、シュトックハウゼン氏自身が監修したCD「Stockhausen Nr.78 Saxophone(Stockhausen-Verlag 78)」の録音は、ほぼ残響を捉えていない。演奏はジュリアン・プティ氏。技術的・音楽的に十分すぎるほどにクリアされた上で、この佇まいは、ちょっと言葉にしがたい妙な説得力を持つ。聴き比べていたつもりが、ついついこの録音ばかりを聴いている。
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