2010/09/30

MAを聴いて考えたこと

昨日は、記事でも紹介したMA Ensembleの演奏をじっくりと聴いていた。MAの精緻な響きに慣れてしまうと、それから数時間はいわゆる一般的なクラシック・サクソフォンの響きは甘ったるく感じてしまい、素直に聴けなくなってしまった。おかげで、MAに続いて、ユニー・アクセルソン演奏のシュトックハウゼンの「コンタクテ」を聴きながら眠るはめになってしまったのだが…。

(MA Ensembleの入手先、昨日の記事にさらに追加しました。探してみれば、あるところにはあるものだ)

普段サクソフォンばかり聴いていると耳が慣れてしまうものだが、やはりサクソフォンの「音」それ自体が持つパワーは、あらゆる管楽器の中でも、最高クラスに位置するものだと思う。「ボレロ」でテナーサクソフォンが登場したときの衝撃といったら大層なものだし(そもそも「ボレロ」は、ひとつメロディが進むごとに、それまでのソロはなんだったのだ、という設計がなされているが、それにしてもテナーの存在感は抜群だ)、「アルルの女」の"フレデリの動機"や"間奏曲"を、果たしてサクソフォン以外のどの楽器に置き換えることができるだろうかと考え込んでしまうし、たまに他の管楽器と室内楽を組んだときの、あのアンバランスさと言ったら…などなど、挙げてゆけばきりがない。

サクソフォンが持つこの性格は、他の楽器による緻密な室内楽などを聴いていると、ある種の「コントロールを逸脱した収まりの悪さ」を感じさせる。サクソフォンは、サクソフォンとしかソノリテが溶け合わないのだ。普通に"室内楽"という観点から考えれば、サクソフォンとピアノのデュエットですら奇怪なものに映る。ピアノの単独の音、サクソフォンの単独の音を2つそれぞれ思い浮かべたときに、それらが五分五分でお互いを立てながら交わす響きを想像できるだろうか?それに成功している演奏・録音を、私はほとんど聴いたことがない。いろいろと考えを巡らせていくと、作曲家の多くがサクソフォンを敬遠する理由も判ってしまう気がする。

演奏スタイル、プログラムともに、禁欲的な場所で勝負をかけることは、この時代にあっては難しそうだ。そういった部分を極めようとする演奏家が現れることは、これから先果たしてあるのだろうか?

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