2008/06/22

A.Petiotって誰?

洗濯物が乾かない季節。今日は、午後を使って目いっぱい個人練習。懸案だったいくつかの曲に、ようやく進展が見えてきた。

さて、グラズノフの「協奏曲」に関しては、今までもいくつか記事を書いてきた。下に挙げたもの以外にも、もしかしたらあるかも。

作品番号について
自筆譜と出版譜の違いについて
ラッシャーのエッセイ

そうだ、「Letters from Glazunov」の続きを翻訳するという作業も残っているが、今日はA.Petiotについて記された文献の翻訳を載せてみたい。Leducからの出版譜のタイトル下に、グラズノフと共に名を連ねているA.Petiot。彼がいったいどういった人物であるのか…というのは、殆ど知られていないようだ。

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James C. Umble著「Jean-Marie Londeix - Master of the Saxophone」より。ロンデックスがグラズノフの協奏曲についてエッセイを書いている:

…この「サクソフォン協奏曲」について、Gilbert Leducはこう書いている。「私の父はサクソフォン奏者ではありませんでしたが、グラズノフと親交がありました。彼は、この楽器のために作品を書くよう、グラズノフを促したのです。最初の、サクソフォンとピアノの版は、1936年2月10日に、印刷業者に回されました。数週間後、浄書された楽譜が印刷業者から出来上がってきて、私の父はすぐさまそのスコアをグラズノフの元に届けました。…おそらくは、その瞬間こそがグラズノフにとって、最後の幸せなひと時だったのです。なぜなら彼は、3月21日に70歳でこの世を去ったからです。」この証言どおり、グラズノフの死に際して撮影された彼の部屋の写真には、彼の仕事机の上にスコアが慎ましやかに置かれているのを、見て取ることができる。

グラズノフのほかの作品と違い、この「協奏曲」には作品番号が付与されていない。ところで、Alphonse Leducから最初の版が出版されたときに、作曲者の名前の横にAndré Petiotが名を連ねた。これはいったいなぜだ?私も、いまだに疑問に思っている。

この疑問に対して、Gilbert Leducはいくつかの理由を教えてくれた。「ロシア革命後、ソビエト連邦は西側の作曲家に対して版権料を支払わなくなりました。そこでフランスは、その報復として、ソビエト連邦出身の作曲家に対して版権料の支払いを拒みました。グラズノフの友人であったAndré Petiotは、作品に連名をすることで、グラズノフが間接的に支払いを受けられるよう、協力したのです。」また、別の理由として、Gilbert Leducはこんなエピソードを教えてくれた。Petiotはグラズノフと親交があり、衰弱したグラズノフはPetiotに対して手伝いを求めたというのだ。それは、オーケストレーションの作業の最中のことであったという。作業が終わった後、グラズノフの希望で、A.Petiotの名前が楽譜に入れられた。その後、首尾よくSACEMの管轄リストに登録されたということだ。

Gilbert Leducに、これらのエピソードを聞いたのは1980年頃のことである。それから20年以上経つが、驚いたことにいまだにLeducからの出版譜にはA.Petiotの名前がしっかりと刻まれている。そこで、改めてJean Leduc(Gilbert Leducの甥であり、現在のAlphonse Leducの社長)にその理由を尋ねてみた。Jean Leduc曰く「Petiotの名前に関しては、楽譜を変えることができません。国際的な著作権絡みの問題もありますし、それだけでなく著者の権利にも関わってきます。」

ここで、こんな疑問が残る。この「サクソフォン協奏曲」におけるAndré Petiotの役割は、いったい何だったのか?そして、彼が関わった自筆譜は、失われてしまったのか?

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うーん。ますます判らなくなってきた。謎が謎を呼ぶ感じだ。この曲の献呈者であるシガード・ラッシャー Sigurd Rascherが「協奏曲」について語ったエッセイと、あまりに差がありすぎるのだ。

Gilbert Leducの証言「私の父は…グラズノフと親交があり…この楽器のために作品を書くよう、グラズノフを促したのです。」→つまり、Gilbert Leducは、父であるAlphonse Leducによってこの作品が委嘱されたと考えていたのだろうか。

「最初の、サクソフォンとピアノの版は…」→ラッシャーの証言では、最初の版はサクソフォンとオーケストラのためのものだったということだが?Gilbertの証言の流れからすると、ピアノ版をオーケストレーションをしてオーケストラ版を作ったということになっているが…。

そして、Petiotが果たした役割とは…?結局、判らずじまいなのであった。

9 件のコメント:

匿名 さんのコメント...

こんばんは。いつもながら示唆に富む文章ですね。

Thunderさんの紹介している雲井雅人さんの
一文
と繋がってきますよね。

それぞれを読んでやっと巨匠2人の
大変な業績が理解できた気がします。

何よりラッシャー氏の気持ちが凄くわかる気がしました。これだけの重要曲で、それも2度に渡って頭越しに・・想像を絶する悔しさであったと思います。

匿名 さんのコメント...

済みません。訂正です。

雲井氏の一文はこちらの2005/06/04(土)の項です。

失礼しました。

kuri さんのコメント...

> DONAXさん

コメントありがとうございます。

スタンスの違いはあれど、ミュールとラッシャー、どちらもクラシカル・サックスに対して大変な貢献をしたことは間違いありません。どちらがどちらより優れている、ということはないと思います。

私がやるべきことは、その二人に対する評価をまっとうなかたちで現代に伝えることだと思っています。特にラッシャー。その雲井さんの記事を読んで以来、数年にわたって興味を持ち続けているのですが、日本での評価が明らかに低い。これは、クラシックサックスに携わるものとして放っておけない状況です。

ラッシャーに関しては、幸いなことに英語圏の論文がたくさんあります。中学、高校と一応英語は人並みに勉強していますので、そういった資料を日本語に書き下していくことで、日本にラッシャーの功績を紹介できればと思っています。

委嘱作品に関しても、グラズノフだけではありません。イベールもまるでミュールと共に捉えられています。ダールは、原典版から大幅な変更が生じてしまいました。マルタンやラーションは、最近になって国際コンクールなどで演奏される機会も増えてきましたが、すでにラッシャーは亡くなっています。ラッシャーの悔しさ、恨み、そういったものを感じてしまうほどです。

…と、熱く語りすぎましたが(^^;DONAXさんのように、ラッシャーの功績を理解してくださる方がいることは、とても励みになります。

匿名 さんのコメント...

ラッシャーの音を改めて聴いてみると、コーン!と隅々まで鳴りきった音で、ミュールの音から一枚ベールを取り払ったように感じます。まさに現代主流(特にアメリカ)のサウンドそのものですね。

昔、彼のドビュッシーを聞いたときには古典的なフレージングの魅力が感じられない気がしたのですが、グラズノフのカデンツァなどは鳴りきったサウンドそのものの魅力がクラシカルな曲の魅力をミュールよりも具体的に(物理的に)提示してくれています。

ミュールもデファイエもヴァイオリン奏者であり古典に対する教養レベルが高いので、クラシカルなフレージングが素晴らしいのでしょう。ラッシャーは楽器の物理的な、本質的な魅力を引き出し、なおかつ数多くのレガシーな楽曲を残してくれた。ソフトとハード、欠くべからざる両輪だと思います。

ユージン・ルソー氏の世代で両者の魅力が結実したということだと思います。プレゼンターがルソー氏だったということも腑に落ちる気がします。

ただ、楽器の歴史に残る偉業に対して、他の受賞者の方と同列扱いははなはだ疑問です。ラッシャーが受け取れないのも、これまた腑に落ちる気がします。

いまこそラッシャー原典版として各曲を演奏するべきなのだろうと思います。

kuri さんのコメント...

> DONAXさん

ソフトとハードってのは、すごくしっくりくる例えですね。

フレージングや旋律的音程の点は、ラッシャーも苦手とするところだったのではないでしょうか。苦手、というか、もっとベーシックなフレージングを追及していたのかもしれません。クラシック音楽としての原点の追求と言いますか。ラッシャーの演奏で、バロックの小品を聴くと、かなりしっくりきますよ。

楽器の音色に対する確固たるスタンスに関しては、日本には好む奏者がいなかったようですが、アメリカのほうでは、しっかりと根付いていますね。もしかしたらサクソフォンの鳴りを突き詰めていった時に到達するのは、ラッシャー派の音色ではないか?という気がしています。

ラッシャーのアプローチこそが、クラシックサクソフォンの黎明期には必須だった活動だったのかもしれません。ラッシャーが頑張ってクラシックの一員としてサクソフォンを(根底から)位置づけようとしているときに、世界中のサクソフォン奏者は、もっと彼の活動に注目すべきでした。今になって考えると、つくづく残念です。

匿名 さんのコメント...

おそらく両者(ラッシャーとLeduc)の言うこととも、それぞれの立場から言えば真実なのだろうと思います。
私の推測は、最初に書いて1934年に初演されたが未出版だったオーケストラ版のコンチェルトを、のちにLeducから出版のオファーがあった「サクソフォンとピアノのための作品」に流用し、ついでにオーケストラ版も出版されることになったのではないか、ということです。
作曲家にとって、作品が出版されるか否かは、死活問題です。
余談ですが、私たちがご存じアメリカの某有名作曲家に作品を依頼した時にも、まず出版社の意向を聞いてから返事をする、と最初に言われたものです。「出版されるあてのない作品は書くことはできない」、とはっきり申し渡されましたから。
最終的に出版社の「書けば出版する」、という約束を取りつけたため、無事書かれましたが。

そのあたりの経緯の核心については、ラッシャーは敢えて言っていないように思えます。出版に至る過程での、「流用」や、「パリの一流のサクソフォン奏者」のコミットによる改変、等についてです。それはおそらくラッシャーにとって、致し方ないけれど、あまり面白くはないことだったのでしょう。だからこそ、核心の叙述には口をつぐみつつ、実は真実はこうなんだぞ、と言いながらも、「細かい事情は後年の音楽学者が研究すべきことだ、我々演奏家はそんなことはどうでもよい」、という開き直った言い回しも出てくるんじゃないかと。
私は「何か」を知っているけれどそれは言えない、という心の動きなしには、このような文章は書かれ得ません(人間は誰しも、自分に都合の悪いことは言わないものです)。

Petiot氏の役割は著作権料支払いの便宜のためであったというLeducの言い分は、おそらく正しいでしょう。
ソ連と外国の著作権管理団体が対立して、著作権料の支払いをお互いに拒んでいた、というのは事実です。例えばストラヴィンスキーはアメリカ定住後、ロシア時代の作品(その多くは「ドル箱」でした)の著作権料を受け取れなくなってしまったので、自作の改訂版をたくさん作らなければなりませんでした。「火の鳥」の1945年版組曲や、「ペトルーシュカ」の1947年版と呼ばれるものがそれです。
Petiotという人物は、パリ在住のクラリネット奏者だった、という記述を読んだ記憶がありますが、どこで読んだか覚えていないため誤りかもしれません。
何にせよ、この「コンチェルト」に於いてPetiotが果たした役割というのは、かなり限定されたものであったことは間違いないでしょう。例えばの話、出版のためのオーケストラスコアの校正だけでも、充分「オーケストレーションの作業の手伝い」にはなりますから。(楽譜というのは、いざ出版となったら、さまざまに膨大な雑務が発生するものです。死の間際のグラズノフには、そんな作業は不可能だったでしょうね。)
今後新しい資料が現れたら、また見方は変わってくるかもしれませんが。

長々と失礼いたしました。

匿名 さんのコメント...

Andreas van Zoelenさんの演奏は原典版と同じ音形で演奏しています。

コメント欄によれば独自に自筆譜を参考にしたようです("this is one of the many things changed in the published version. I used all the information from the manuscript")。

権利関係から言うと原典版の出版は壁があるのでしょうね。自筆譜を参考にして演奏するのは面倒な事はないのでしょうか?

kuri さんのコメント...

> Thunderさん

コメントありがとうございます。Thunderさん的見解、興味深く拝見しました。

まず出版関連の話ですが、R氏の話は興味をひかれますね。委嘱に際してそういった条件が付いていたとは、ついぞ知りませんでした。Alphonse Leducからオファーがあったのは、ほぼ間違いないでしょう。あとは、いったいどういう順番で出版されたか、ということです。Leducがグラズノフの死去直前に届けられたスコアは、ピアノスコアだった可能性は高いでしょう。ラッシャーのエッセイで述べられている、「まだ出版社が見つかりません」というのは、その話からするともしかしたらオーケストラ版の話なのかもしれません。

ラッシャーの心情に対する考察も、面白いです。ふと考えたときに「細かい事情は後年の音楽学者が研究すべきことだ、我々演奏家はそんなことはどうでもよい」という記述が余計な一文に思えていたのですが、そういった解釈だと腑に落ちます。ただ、我々としてはもっと突っ込んだ経緯を知りたいという要求はあるものでして…(笑)ラッシャーがもう亡くなられてしまった今、もっといろいろな資料が出てくればと思っています。そのうち、ラシェリアンの誰かに訊いてみようかなあ、と思っています…。コンタクトをとった事はないですが、Bruce WeinbergerかLinda Bangsあたり、我々がまだ知らない、面白い情報を持っているのではないでしょうか。

Petiotですが、もともとクラリネット版であった(?)ピエルネの「カンツォネッタ」に関わったという記述をどこかで見ましたが、私もそれ以上のことは分かりませんでした。ソ連の著作権絡みの話は、今回の資料を翻訳して、初めて知りました。ストラヴィンスキーのオケ曲~年版、というのは、そういう経緯で作曲されたのですか。今まで不思議に思っていましたが、なるほど。

Thunderさんのブログのほうでも、ぜひ記事ひとつ書いてみてください~。というか、このコメント自体が一つの記事くらいのボリュームありますね(笑)

kuri さんのコメント...

> DONAXさん

どうもありがとうございます。あれー、どこかで観たことがあるなあと思ったら、以前記事で取り上げていました。

2007年10月30日の記事

ただ、この時はグラズノフの自筆譜がなんとか、とか出版譜がなんとか、とか全く私自身分かっていなかったようで、そのことに関しては触れていません。改めて観てみましたが、[24]付近など、確かに自筆譜に沿って演奏しているようですね。演奏の権利関係ですが、もしかしたら突っ込んだ許可はとっておらず、独自に自筆譜を研究してサッと演奏してしまった、ということなのかもしれません。ニッチな市場での、ほんの僅かな譜面の変更ですからね。権利団体が誰も気づかなくてもおかしくないのかもしれません。