2年ほど前に書いた記事に、コメントを頂戴した。久々に読み返してみたら、我ながら?なかなか面白い記事であったので、少し内容を変えて新たに掲載しておく。
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湯浅譲二氏の「私ではなく、風が…」の楽譜を入手して、眺めている。まさか、吹くということではないのだが。
実演に接したのは2006/7/19のジェローム・ララン氏のリサイタルの時だが、演奏に際し、臨席していた湯浅氏が興味深いエピソードをいくつか話された。その中の委嘱時のエピソード、「僕はもともとサックスの豊潤な音が嫌いで、野田君から委嘱されたときも断ろうと思っていたのだが、野田君にそう話したところ『僕もサックスの音が嫌いです』と言われ、断る理由が無くなってしまった」との話がずいぶんと頭の中に強烈に残っていて、楽譜も見てみたいなー、と思っていたところだったのだ。
マイクを譜面台の近くに二本並べて、片方は増幅、片方はエコーとし、サックスのベルはその間を行ったり来たりしながら独特の響きを作り出していく。サックスの譜面はほとんどが無声音やキーノイズで、意図的に大音量を抑えているような印象を受ける。現代の楽器「サクソフォン」のための曲と言うよりも、なんだかクラリネットのためのような楽譜だ。
面白かったのがヴィブラート。上に載せたのは楽譜の一部だが、全曲を通してヴィブラートの指示がここにしかないのだ(写真参照)!フツーのフランス・アカデミズムに則った作品の演奏では考えられませんなあ。
でもよくよく考えてみたら、そういえばヴィブラートをかけるべき音は、指示が無い場合はほとんど奏者の裁量に任されている部分がある。楽器の響きを明確に指定したい作曲者からすれば「ヴィブラート」って邪魔なものなのかもしれないな。ベリオ「セクエンツァIXb」の楽譜を見せてもらった事があるのだが、冒頭にはっきり「sans vibrer」の文字、そして曲中には適宜ヴィブラートの指示が。
響きにこだわりをみせたい作曲家ほどに、サクソフォン=ヴィブラートを伴った音、という固定観念を持っている作曲家達はサクソフォンから離れていく傾向があるということか。サクソフォンで作品を書くということはすなわち、自分の想定する響きを作り出すのが難しいことにつながってしまう場面もあるのだ。
サクソフォンの歴史を俯瞰すれば、軍楽隊の中での木管と金管を合わせたような素朴な響き→現代のコンサートホールに適した豊潤で大音量のソロ楽器、ソロとしての響きを生み出そうとする課程でヴィブラートを獲得、という変遷を経てきたと言うことだが、こうして得たサクソフォンならではのアイデンティティが負の方向に働いてしまう状況も、(特に作曲家によっては)あるにはある、のだろう。サクソフォンのそういうところに惹かれている自分にとっては、なんだか不思議な感じだ。
2 件のコメント:
kuriさま
ええ、「私ではなく風が……」の記事はとても興味深く拝見しました。ここでしか読めない価値ある内容だと思いました。kuriさんは、ピリオド奏法には興味ありませんか? 元々、楽器の響きはもっとシンプルでストレートだったのではないか。そういうのを復活させる動きがありますね。
私のブログもコメント大歓迎ですので、何かひっかかるものがあったらコメントお寄せください。
> tuck様
ありがとうございます。私自身も、昔の記事を思い出すきっかけとなりました。
サクソフォンのピリオド奏法、一部では最近復活の兆しがありますね。国内ではあまり聞きませんが、たとえばオランダのボーンカンプ氏などは、当時の楽器を使ったCDのレコーディングを行っています。
tuckさんのブログ、拝見しました。興味深い内容が多く、つい見入ってしまいました。またコメントさせていただきたいと思います。
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