昨日の夜はBigBoyでサラダを食べまくりました。葉っぱ系からマンゴープリンまで、種類が多いのが良い。気づけば3時間もぐだぐだしてしまったのでした。ああ、楽しかった。
シガード・ラッシャー Sigurd Rascherの演奏で、イベールの「コンチェルティーノ・ダ・カメラ」を聴いている。ミュールのこの曲の録音は、代名詞ともなってしまっているとはいえ、きちんとラッシャー自身も演奏をしているのだ。放送用録音(イントロでラッシャーの肉声を聞くこともできる)という性質上、オーケストラが寄せ集めなのだろうか、かなり野暮ったい進行になっているが、隅々まで聴いてみると、十分すぎるほどの見事なパフォーマンスである。
イベールのアルティシモ(フラジオ)音域を全く危うげなこともなくスラスラと駆け上る様なんか、現代ではなかなか聴けないだろう。そもそも、ピリオド楽器にチェンバーが広いマウスピースというのは、かなり抵抗が強く、フラジオ音域へのアプローチ自体は容易かなとも思われるが…それにしても!音色の純度は高い、が、フランス風の音色に聴きなれた耳には、やや違和感を覚えなくもない。そう、比べて聴いてしまうとダメなのだ。いくら優れているものでも、それよりもっと優れているものが出てくれば、聴衆はそちらへと惹かれていってしまう。
ミュールという"神様"の演奏には、華麗な音色と、豊かなヴィブラート、超高速のフィンガリングという、誰もが羨望するような「華」がある。ラッシャーの演奏は、それに比較するとややこもった渋い音色、ときどきもたつくかのようなフィンガリング、といった負の側面ばかりが見えてきてしまうのである。世界がラッシャーを受け入れなかったのは、その辺の理由も大きいだろうなあ。
実際のところ、私だってミュールのイベールとラッシャーのイベール、どちらが好きかと言われれば、迷うことなくミュールのそれを選ぶ。1938年のゴーベール指揮パリ音楽院管弦楽団のセッション録音、1950年のロザンタール指揮パリ管弦楽団とのセッション録音、1958年のミュンシュ指揮ボストン交響楽団とのライヴ録音…いずれも奇跡的な演奏ばかりである。特に1938年の演奏の、どこまでも即興的でみずみずしいこと!
ラッシャーは、ミュールがイベールの吹き込みを行ったとき何を思ったのだろう…。やはり、心の底ではかなわないとも思っていたのだろうか。ピリオド・アプローチへとシフトしたのは、あるいはその辺がきっかけだったのかもしれない。
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