2022/04/28

マルタン「バラード」のミュンヘン国際コンクール録音(?)

Swiss.infoに、情報無しにポンと投稿されているこちらのマルタン「バラード」の録音。

完全断定はできないものの、アレクサンドル・ドワジー氏が2001年ミュンヘン国際音楽コンクールのサクソフォン部門で1位無しの2位を獲得した際の録音と思われる。1位ではなく、1位無しの2位になった理由が、最終部をオクターブ下げたことにあるとも言われているが、果たして。

https://www.swissinfo.ch/eng/multimedia/martin--ballade-for-saxophone-and-orchestra/31813726

2022/04/24

フェルリングのエチュード(サクソフォン版)成立の頃

マルセル・ミュール氏は1942年にクロード・ダルヴァンクールの要請から、パリ音楽院のサクソフォン科教授となったが、その頃はまさに第2次世界対戦真っ只中、ドイツがフランスを占領していた頃である。フランスのアーティスト達は、占領下において自身の身を守るために、ドイツ語を学び、積極的にコミュニケーションを取るようになっていたが、パリ解放後は逆にそれが仇となり、群集心理から"特別粛清委員会"なるものが組織され、占領下のドイツ軍寄りの行動・言動がやり玉にあげられて、裁判にかけられることになったそうだ。

残念ながら、その裁判記録は大部分が欠落し、果たしてミュール氏自身がその場に引き出されたかどうかも定かでない。しかし、この一連の動きから(デファイエの証言によれば)ミュール氏は4年間、演奏自粛せざるを得なくなったそうだ。

この間、自宅に閉じこもっている際に完成させたのが、「フェルリング:サクソフォンのための48の練習曲 + ミュール:各種調性の新しい12の練習曲 増補改訂版」である。ミュール氏自身のコメントとして、「長い間、家に閉じこもっていたからこそ、このプロジェクトを完成させることができ、長年の夢を実現させることができたのです」との言葉も残されている。有名なエチュードだが、このような成立経緯があるとは知らなかった。

参考文献:Pour une histoire du saxophone et des saxophonistes Livre3 (J.M.Londeix)

2022/04/23

映画音楽とマルセル・ミュール(五重奏/映像)


ミケランジェロ・アントニオーニ監督「La Signora senza camelie(伊 1952)」の音楽には、サクソフォンが大胆に取り入れられている。作曲はGiovanni Fuscoという人物で、アントニオーニ監督の映画への音楽提供で名を馳せた人物とのこと。

「Cronaca di un amore(伊 1950)」の音楽に、マルセル・ミュール氏が独奏で参加していることは以前の記事で述べたが、こちらの映画ではなんと演奏者のクレジットがQuintetto di sassofoni Marcel Muleとなっている。ミュール四重奏団ではなく、ミュール五重奏団、というのは初めて聴いたのだが、一説によればミュール四重奏団をベースに、五人目としてダニエル・デファイエ氏を迎えた臨時編成との情報もある(「Le chant du cinema francais(SAXIANA)」より)。スコア上、それほどテクニカルさは無いが、しっとりと多重奏で奏でられる演奏は、程よい雰囲気を醸し出し、映像に華を添えている。

ミュール氏の録音は、クラシック編曲物やオリジナル作品など、SP時代~LP時代に非常に多くの録音が制作され、かなりの量の復刻が進んでいる。しかしながら、映画音楽方面を辿るとまだまだ知られざる録音が出てくるのだ。演奏者としてクレジットされているもの、他に無いかな…。

数年前にネット界隈を騒がせたのは、「Dans les Rues(仏 1933)」で、ここではミュール氏自身がダンスバンドメンバーとして、一瞬映像に登場している。ミュール氏の演奏姿(アフレコだとは思うが…)を見ることができる数少ない映像の一つである。

デザンクロ「レクイエム」の解説文訳

アルフレッド・デザンクロの合唱曲集「Desenclos: Requiem(HORTUS 009)」の、ライナーの簡易翻訳。高尚な言い回し(?)が多く、入手当時は、訳して読むことを諦めてしまっていたのだが、OCR/機械翻訳の進化もあり、再トライ。本当に良い時代だ。

ごく短い解説文ながら、フランスの音楽界におけるレクイエムの「伝統」を、体系的に俯瞰しながら知識を得ることができる資料だと思う。

「交響曲」「五重奏曲」を"世俗的"と言い切っているのが少し面白かった。一瞬違和感を感じたあとに、まあ、そりゃそうだよな、と。我々が今日、クラシック音楽、として有難がって聴いている音楽のほとんどは、宗教音楽からすれば"世俗的"なのだ。

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「フレンチ・レクイエム」の伝統は、確実に存在するのです。フレンチ・レクイエムの作曲家たちは、音楽的、宗教的、哲学的な概念に、見えない糸で導かれているようで、それらは時に対立しながらも、最終的には不思議なほど首尾一貫したコーパスを形成しているのです。(訳注:コーパスとは、一般的に、言語学において使われる単語で、自然言語処理の研究用に、言語の文章を構造化・集積・ラベルを付与したもの)

この伝統の出発点をたどると、フランス郵政公社社長アルフレッド・リボンの遺言に行き着きます。カミーユ・サン=サーンスは、リボンのためにレクイエムを作曲することを条件に10万フランの金を遺贈されたのである。1878年、リボンの遺志は実現しました。

この瞬間、モーツァルトの「黒衣の男」は、フランス共和国の高級官僚に取って代わられました(「黒衣の男」と違いその正体に謎などありません)。サン=サーンスの「レクイエム」は、典礼向けと演奏会向けの中間に位置する作品として、このジャンルの境界部分を画定しているのです。サン=サーンスは、テキスト以外にも、典礼の簡潔さ、細部へのこだわり、パリの大きな教区教会の習慣(大オルガン、合唱オルガン、ハープの使用)に由来する非典礼的な楽器編成を継承しています。このように彼は、ベルリオーズやヴェルディの大規模な娯楽作品に背を向けると同時に、それ以前の多くの作曲家の実用一辺倒の作品から可能な限り距離を置いたのです。その結果、徹底的に完成され、洗練された、非常に個人的なスタイルの特徴をすべて備えた、ユニークな音楽が誕生しました。10年前に書かれたリストの「レクイエム」の中の「オロ・サプレックス」が、サン=サーンスに直接インスピレーションを与えており、サン=サーンス本人もそのことを認めています。

さらにその10年後、サン=サーンスの親友であったフォーレがレクイエムを作曲することになります。しかし、このレクイエムは、無名の教区民の葬儀の際に初演されたマドレーヌ寺院の器楽と声楽のリソースを尊重し、(当初、器楽としてはオルガンしか使わない)実用的な作品に仕上がっていました。

アルフレッド・リボンの遺産は、サン=サーンスを「マドレーヌ寺院のオルガンへの隷属」から解放したものだったのです。同じ「隷属」に縛られていたフォーレは、母の死が彼に与えた苦しみを「レクイエム」で表現しました。しかし、それは正反対の原因による鏡像のようなもので、結局はサン=サーンスの作品に近いものとなってしまいました。

サン=サーンスの「レクイエム」はすぐに忘れ去られてしまいましたが、そのオリジナリティの高さが仇となったのでしょう。フォーレの作品も、出版社であるハメル社の介入がなければ、おそらく同じ運命をたどっていたことでしょう。1876年にイタリア劇場で初演されたヴェルディの「レクイエム」が大成功を収めたことを思い出したのか、出版元のハメル社は、フルオーケストラのための版を要求してきたのです。1900年の万国博覧会でトロカデロ・コンサートホールで初演されたフォーレの「レクイエム」は、作曲者の宗教的無関心によって、信者のための一種の典礼となりました。サン=サーンス~フォーレの、一連の方向性は、モーリス・デュリュフレが、それを真の「伝統」に変えなければ、単なる偶然の産物であり続けたことでしょう。

1947年に作曲されたデュリュフレの「レクイエム」は、再び大編成のオーケストラの利用、演奏会での初演というレクイエムの形式をとりました。「ピエ・イエズ」ではソプラノの甘いソロ、「リベラ・ミー」では合唱の高貴なユニゾンの旋律というように、ある種の決まり文句を使う点で、フォーレと同じようなインスピレーションを受けます。

しかし、デュリュフレは、1948年当時は空っぽの殻のように見えたものに生命を吹き込むような、新しいものを導入しました。この聖歌は間違いなく、デュリュフレにとって戦闘的な信仰の象徴であったのです。この偉大なレクイエムは、バックグラウンドへ回ったことで重要性を失っていた「テキスト」の扱いが、サン=サーンスやフォーレのそれとは違うのです。その真の意味を再発見しなければならないと断言したデュリュフレは、教会の奉仕者でありながら教会における宗教的信念を欠いていたサン=サーンスやフォーレの懐疑主義(まさに無神論)から意図的に距離を置いています。しかし、デュリュフレは、「演奏会用レクイエム」という開かれた扉にサインをすることを望まなかったのです。デュリュフレの「レクイエム」は、彼の信仰と矛盾するどころか、彼の信仰を強化するものだったのです。オリヴィエ・メシアンは、コンサートホールで初演された「アセンション」を聴いて驚いたジャーナリストに対して、「神はどこにでもいる」と自分を正当化するように言いました。

1963年、アルフレッド・デザンクロは、1世紀前にサン=サーンスが打ち出した主題に、彼なりのヴァリエーションを加えることになりました。

アルフレッド・デザンクロの運命は、多くの点で模範的です。1912年、ポルテル(パ・ド・カレー)の10人家族の7番目の子供として生まれた彼は、家計を助けるために20歳まで工業デザイナーとして働かなければならなかったのです。しかし、1929年にルーベーのコンセルヴァトワールに入学し、それまでアマチュアとして演奏していたピアノを学びました。デザイナーとしての仕事を続けながら、ピアノ、オルガン、和声、音楽史の分野で数々の賞を受賞し、粘り強さを発揮しました。わずか3年間で身につけた知識は確かなものだったようで、1932年にパリ音楽院に入学することができました。パリ音楽院では、和声、フーガ、作曲、伴奏の各賞を受賞し、1942年にはローマ大賞を受賞しています。

戦後すぐのパリの音楽生活は、不思議なほど活気に満ちていました。新古典派は、この時期、音楽専門誌を中心に猛烈な反発を受けましたが、デザンクロは、まさにその新古典派に身を置いていました。デザンクロは論争の中に身を置くことことを拒み、その繊細さと皮肉のセンスのおかげで、精神の自由を保つことに成功しました。彼は、学問的な訓練の質を放棄することなく(そのおかげで経済的な問題も解決できたのです)、自分の限界を無視することなく、「ローマ賞を受賞した後に作曲を始めた」ことを特に告白しています。

デザンクロが宗教音楽に初めて接したのは、音楽院在学中のことです。その後、パリのノートルダム・ド・ロレットの合唱団長となりました。この教会のために作曲したモテットは、サン=サーンスやフォーレの伝統を受け継ぎ、洗練された和声とおおらかな旋律感覚が、当盤収録の「アヴェ・マリア」、二つの「オ・サルタリス」、「サンクトゥス」によく表れています。

一方、「アニュス・デイ」における、ドイツ的ロマンティシズムには驚かされます。死者のためのミサ曲のテキストに従ったこの曲は、おそらくレクイエムの下書きであり、もし完成させていたら、きっと並外れたものになっていたことでしょう。

しかし、デザンクロが「音楽」の作曲を始めたのは、ローマ賞の頃からだと、彼は言っています…。

1944年の短い「父なる神」を除き、五重奏曲、協奏曲、交響曲など世俗的な作品をいくつか書いた後、デザンクロは再び聖楽に興味を持ち、1958年にアカペラの合唱のための2曲を作曲しました。1958年、アカペラ合唱のための2つの作品「Nos autem」と「サルヴェ・レジーナ」を作曲した。1963年の「レクイエム」は、若いころのモテットとはまったく異なる作風を確立しています。

フォーレの最終版の「レクイエム」やデュリュフレの「レクイエム」と同様、デザンクロの「レクイエム」の原曲はフルオーケストラの力を借りて、ストレートに世俗的な枠組みで演奏されています。「サンクトゥス」では、ラヴェルの「ダフニス」のように、合唱がオーケストラの中に入り込んでしまうという、まさに世俗的な作品です。しかし、「サンクトゥス」は例外で、他の楽章では、オーケストラはあくまで背景にとどまり、声楽を引き立たせる繊細な役回りとなっています。サン・サーンスの「レクイエム」のように、合唱団はソロの4人組をモノポライズし、17世紀のヴェルサイユのモテットのような「小さな合唱団」的存在になるのです。

デザンクロにとって、バランスは本質的な美徳であるように思われます。ある種の決まり事(フォーレやデュリュフレ以来「必須」とされる「リベラ・メ」のユニゾン・クワイアの長いフレーズ)を尊重する一方で、例えば「ピエ・イエズ」の甘いソプラノ・ソロを避け、その代わりに耳障りな「中世」風のハーモニーを歌う合唱団を入れるなど、他の決まり事も破っているのです。デザンクロは、「死者のためのミサ曲」のグレゴリオ的モチーフの引用を断念した(デュルフルは間違いなくこのテーマをやり尽くした)ものの、その要素を用いて独自の主題を作り出すことに躊躇しませんでした(短いアンビトゥス、メリスマ、「準グレゴリオ」の楽譜上の表示など)。さらに他の点として、デザンクロは和声の表現力に、最大限の役割を与えています。平行和音の多用は、ある意味でジャズの要素を想起させますが、実際にはレクイエムとしては新しいものです。和声と多声の効果を交互に使うことで、デザンクロは前衛的でありながら逆行しない独自のスタイルを作り上げ、尊大でもドライでもない直接的な表現を実現しています。

「作曲するとき、私は特定の目標を持っていません」とデザンクロは語っています。あらゆるシステムに反抗し、既成概念にとらわれず、伝統と個人的なイニシアチブを賢く利用することに身を任せたのです。

フォーレの告解、デュリュフレの信仰の聖堂を経て、デザンクロが再び挑んだのはサン=サーンスがその作品で目指したものであり、フレンチ・レクイエムの1世紀を締めくくるものです。この作品が懐疑論者のものでないとして、少なくとも、明らかな「ヒューマニズム」に支えられていることは確かでしょう。

ヴァンサン・ジェンヴラン

2022/04/20

「The Solitary Saxophone」ライナーよりベリオxドゥラングル

言わずとしれた名盤、クロード・ドゥラングル氏の「The Solitaty Saxophone(BIS-640)」。ライナーノーツには、ドゥラングル氏とベリオ氏の短い対談が記載されているが、簡単に日本語訳してみた。

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ルチアーノ・ベリオを訪ねて

パリでの打ち合わせが無くなり、私は、1993年6月22日、フィレンツェのルチアーノ・ベリオのスタジオを訪ねた。私たちは午前中ずっと、オーボエのためのセクエンツァVIIのソプラノサクソフォン版であるセクエンツァVIIbの最終的なディテールの修正に取り組んでいたのだ。

フィレンツェを去る前に、私は彼との短いインタビューを記録することができた。

…

クロード・ドゥラングル:シャトレ座でお会いして、私からあなたへサクソフォン版の作成を提案してから、もう2年以上経ちましたね。この作業は長いものでした。とはいえ、私は、この作品の真の精神から逸脱してしまうを非常に恐れていました。結果、どうだったでしょうか?

ルチアーノ・ベリオ:あなたの演奏は素晴らしいプレゼントであり、非の打ちどころのない演奏でした。ソプラノサクソフォンが、オーボエのための原曲の特徴を、私が好むレベルまで拡大、増幅していることに、私は大変興味を持ちました。私は、オーボエと11弦のための「シュマンIV」を拡大し、ソプラノサクソフォンと23弦のための「シュマン」を作ろうとしているのです。私はサクソフォンのことがもともと好きなのです。ルーツがジャズなどの口承音楽のようなところにあるため、ずっと好きだったのです。サクソフォンは、さまざまなキャラクターを生み出すことができます。オーケストラでは、木管と金管をつなぐ柔軟で美しい橋渡し役でありながら、独自の個性も持っているので、私は頻繁にサクソフォンを使います。サクソフォン・ファミリーを取り入れると、力強い個性が発揮され、オーケストラの統一感を高めるのに一役買うのです。

CD:オーケストラの中でのサクソフォンの位置づけはどういったものでしょうか?

LB:サクソフォンはとても柔軟な楽器で、金管楽器に対抗できる音のパワーを持っています。サクソフォンはいろいろな面を持つ楽器です。ですから、私はオーケストラの中でも、ソロの楽器としても使いたいのです。

CD:アルト・サクソフォン用の「セクエンツァIXb」をベースにした「シュマン」の制作も構想されているとのことですが。

LB:あなたの演奏に説得されたのです。将来、時間ができたら取り組んでみようと思っています。すでに構想はできつつあります。今、あなたの演奏を聴いて、あなたへの感謝の気持ちが芽生えました。

CD : サクソフォンを教えるにあたって、何かアドバイスはありますか?現代の作曲家の音楽に対応できるようになるために、学生たちに何を教えるべきでしょうか?

LB:レパートリーはまだそれほど多くありませんが、サクソフォンを学ぶ若い人たちには、非常に柔軟なアプローチを教えるべきだと思います。たとえば、「過剰なヴィブラートをかける、古いフランス流の楽器」という位置づけから切り離してしまうことです。同様に、蔓延る悪い音楽からも…。音楽的な精神の柔軟性、それが最も重要なことなのです。

CD : ダイナミクスや色彩の観点から、可能性を最大限に引き出すべきと考えていらっしゃるのでしょうか。

LB:そうです。あなたのソプラノサクソフォンで演奏されたセクエンツァで私が大いに驚いたのは、そのダイナミックレンジの広さと色彩感です。これは予想外だったと言わざるを得ません。素晴らしいプレゼントをいただきました。

CD:親切なコメント、ありがとうございます。

2022/04/17

木下直人さんから(ミュール新発見盤)

木下直人さんから、マルセル・ミュールの新発見盤の復刻CDを送っていただいた(いつもありがとうございます!)。

Polydor Disque 522.956という型番が付いており、演奏者欄にAndre Messier et son orchestre "FANTINITZA", Solo de saxophone Marcel Muleの記載がある。


このAndre Messierという人(演奏者であり、収録曲のうち一方の作曲者でもある)は、映画音楽の作曲者として有名らしく、フィルモグラフィを調べてみると、The Forest of Farewell (1952)、The Orphans of Saint-Vaast (1949)、Love Around the Clock (1943)、L'Etrange Nuit de Noël (1939)、Le Château des quatre obèses (1939)、といった映画名が挙がる。

このSPには、Andre Messierの「Cendrillon Moderne: Valse-ballet」と、Andrew Walrenceの「Leger Tourbillon: Intermezzo valse」という2曲が片面ずつ収録されている。曲の素性などは、インターネット上でかなり調べてはみたのだが、どうも不確かな情報しか出てこない。また、Andre MessierとAndrew Walrenceが同一人物だと主張する情報もあり、なかなか情報を整理できなかったのが悔やまれる。もう少し調べてみたいのだが、純音楽というよりも、映画音楽的な方面から調べないと難しそうだ…。

内容は、極めてポピュラー寄りの、ダンスミュージックといった装い。ミュールのサクソフォンの軽やかさ、美しさ、気品は、頭一つ抜けていると感じる。ミュールはダンスバンドなどで演奏しており、ヴィブラートをその経験から取り込み、クラシック音楽へと輸入していったとされているが、こういった演奏を聴くと、余技として単純に軽々しく演奏していたわけではなく、ミュールは、天性・努力の賜物としての一級品の演奏を、どんな場へも持ち込んだのだなと、実感する。

SPからの明瞭な復刻は、木下直人さん独自のシステムによるもの。ノイズは敢えて無修正であり、しかしながら演奏そのものに耳を遣るとノイズは全く気にならないどころか、むしろ市販品のノイズ除去盤がリマスタリング段階でいかに無神経にノイズを消しているかが分かってしまい、木下さんの盤以外聴けなくなってしまう…。

2022/04/10

容易に入手可能なデファイエ氏の録音

公式な復刻が進んでいるとは言い難いダニエル・デファイエ氏の録音だが、今現在、比較的入手しやすいデファイエ氏の録音を下記に挙げておく。


「20th Century Music for Saxophone and Piano(SWR Classical Archive SWR10331)」
デジタル配信の時代になって急に登場した録音。SWRとは、南西ドイツ放送のことで、SWR Classical Archiveというシリーズのひとつとしてリリースされた。おそらく、放送用録音として所蔵されていたテープからの復刻であろう。1958~1963年の、デファイエ氏が脂が乗った時期の見事な演奏記録で、チェレプニン「ソナティネ・スポルティヴ」や、クレストン「ソナタ」などの有名曲を交えた録音で、大変聴き応えがある。一発録りなのか、すこしアンサンブルなどは怪しい箇所も聴こえてはくる。私なんかは「これこれ!」といった感じで聴いてしまって、あまり冷静な判断を持って聴くことができないのだが、このソノリテや歌は現代にも通じるところが多いのではないだろうか。


「魅惑のサクソフォーン(King KICC-477)」
日本で録音された小品集。ピアノは山田富士子女史。元々はLPで、CD時代に復刻発売→廃盤となっていたが、2004年に再発売されて以来、カタログ落ちせずに残っている。小品とはいえ、丁寧な演奏の中に、当時のデファイエ氏が持っていた演奏の趣味の良さを存分に感じることができる。とはいえ、現代のサクソフォンを聴き慣れた耳に合うかどうか…これはぜひ、今現役でサクソフォンを学んでいる20才前後の方々に意見を伺いたいところだ。


「サクソフォーン・アンサンブルの至芸(Sony SICC 1972-3)」
2015年に突然発売された復刻盤。「サクソフォーン・アンサンブルの至芸 L'art supreme du quatuor de saxophones(1978年)」「フランス・サクソフォーン四重奏の新たなエスプリ Esprit nouveau de France saxophone quartette(1975年)」の2枚が復刻されている。長きにわたり未復刻だったこれらソニー盤は、比較的入手しやすかったEMI盤の素晴らしさもあって、文字通り伝説的な盤として「話は聞いたことがあるが中身を聴いたことがない」「リュエフの冒頭がすごいらしいが聴いたことがない」といった話を良く聞いたものだ。実際、言葉はいらないほどの名演の数々、聴いたことがなければぜひ一聴を。