赤松文治「栄光のギャルド・レピュブリケーヌ吹奏楽団」より
アルト・サクソフォン主席のコンベルは、1880年7月26日にソーヌ・エ・ロアール県マルシニーで生まれ、1902年にクラリネット奏者としてギャルド・レピュブリケーヌ吹奏楽団に入隊後、サクソフォン奏者に転向し、1904年にアルト・サクソフォン主席奏者に抜擢され、演奏会では独奏者としても活躍した。彼は作曲も堪能で、サクソフォン独奏のために「演奏会用独奏曲第1番」「スケッチ」「セヴィリャの理髪師第1番・第2番」「マウルの幻想曲」「イタリア夜曲」「3連音符のマズルカ」「キプロス幻想曲」「マルボロー変奏曲」「バラードと嬉遊曲」、二重奏のために「5つの二重奏曲」を作曲したほか、1920年に同僚のブリヤールとラッフィーのために舟唄「エソンで」を作曲し、更に「現代大教則本」を著したが、同年セルマーがサクソフォンの製造を始めたときテスター顧問となった。そして、1923年にミュールに熱心に入隊を勧めたのち退職し、ボーヴェー音楽学校校長、パリ6区吹奏楽団とバンセンヌ市吹奏楽団指揮者、ドルネ楽器会社顧問などをしていたが、1949年にレジョン・ドヌール5頭勲章を受賞し1953年3月3日に亡くなった。
Harry R. Gee「Saxophone Soloists and Their Music」より
もともとはオーボエ奏者であり、1902年にギャルド・レピュブリケーヌ軍楽隊に入隊、その後サクソフォン奏者となった。1923年、マルセル・ミュールに、楽団のオーディションを受けるよう熱心に勧め、ミュールは8月に21歳で入隊した。ユージン・ルソーによる、ミュールのインタビューを抜粋する。『コンベルは疑いようがなく、輝かしい独奏者であり才能のあるヴィルトゥオーゾで、頻繁に楽団における独奏者として演奏していました。楽団では、幻想曲、変奏曲などを演奏していました。』セルマーが1920年にアドルフ・サックスの工房を買収したとき、コンベルはテスター兼アドバイザーとなった。
2eme Solo de Concert (1911)
Esquisse
Grande Methode Moderne (1910)
Le Barbier deSeville No.1
Sur L'Esson Barcarole (1920)
Frantaisie Mauresque (1920 to E.Hall)
Serenade Italienne (1920)
Triolette Mazurka (1920)
Rapsodie Cypriote (1932)
Malbrough (1938)
Ballade et Divertissement
Five Duets (1958)
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