とあるお誘いで、再びしガード・ラッシャーに関する記事を書くことになったのだが、その下準備の一環として、ラッシャーの演奏に対して感じることを取り留めなく書いていきたい。
一番最初にラッシャー、そしてその弟子たちの演奏を初めて聴いたときの印象は、実はあまりよく覚えていない。クラシック・サクソフォンにハマり、各種CDを見境なく集めていた時期に手に入れた、John Edward Kellyの協奏曲集が最初だろう。日本やフランスの奏者の演奏を好き好んで聴いていた私は、単純に「あまり興味がない」演奏として分類し、ほとんど聴くことがなかったのだ。そのCDには、イベールの他に、マルタンやラーションの協奏曲(今ではどちらも好きな曲)まで入っていたというのに、それらの作品にすら興味が起きなかったのだ!当時の自分にとっては、それだけ魅力がなかったということになるのだが…。
ミュールが創り上げデファイエが継承した、フレンチ・スタイルの演奏は、弦楽器のフレージングやヴィブラートを参考としている。デファイエにいたっては、パリ音楽院でヴァイオリンを学んでいたほどである。その華麗な演奏は、耳の肥えたクラシック・ファンをも納得させるものであると思う。また、楽器の進化とともにサクソフォンが獲得した芳醇な響き…ミュールはセルマー、デファイエはクランポンという違いはあるが、その音色を最大の武器とした。
ラッシャー派の演奏は、フレージングセンスという点で言えば、残念ながらフレンチ・スタイルの後塵を拝している…と言い切ってしまっても良いだろう。「易しいことを追い求めよ」と、通常音域の中での技術的・芸術的トレーニングを重視するミュールらの演奏と比べ、音域拡張など別の場所にもフォーカスしたゆえだろうか。また、音色に関しても、ヴィンテージ楽器、そしてチェンバーが広いマウスピースを使うことにより、ややこもり気味で落ち着いた(悪く言えば地味な)ものである。
100人が聴けば、ほぼ間違いなく100人がフレンチ・スタイルの演奏を好むだろう。これはJ.E.ケリーが…ということではなく、ラッシャー自身の演奏を聴いても、その他のラッシャー派の演奏を聴いても、同じ印象である。また、残念ながらミュールと同じ曲の演奏を聴き比べてしまうと、基本的なテクニカル面(例えば跳躍、音程、音色の均一性など)で明らかな差が聴こえてしまうのだ。ミュールと同時期に生まれた悲劇とも言うべきか…50年早かった天才だという評も聞く。
それでは、ラッシャーの功績は、フラジオ音域の開拓とサクソフォン作品の委嘱だけなのか…という思われるかもしれないが、聴きこんでいく中で不思議とその演奏に魅力を感じ始めるのだから、不思議である。一聴してこもり気味だと思われた音色は、様々な録音を収集する中で、とんでもなく純度の高い音色だということを気づく。無菌室で培養したような、ノイズを取り去った音色、そして、発音のクリアさや一音一音のとんでもない安定さに驚嘆する。サクソフォンから出てくるひとつの音のコントロールで言えば、世界最高レベルなのかもしれない(ただ、一音だけではただの"音"であって、"音楽"には成り得ないところがアレだが)。
楽器の捉え方というか、音楽に対する捉え方というレベルからして違うのだろう。他の楽器の模倣ではなく、サクソフォンが数ある管楽器の中でどのような役割を果たすべきか、もちろんアドルフ・サックスの意図を汲み取りながら、そしてアドルフ・サックスが意図しなかった方向に進みつつあったサクソフォン界に警告を発しつつ、考えて、演奏・教育活動として実践していたのであろう。
結果として世の中の大半の流れはフレンチ・スタイルとなっているが、独自の世界を築き、弟子を増やしながらその世界を啓蒙し続けた姿勢は、高く評価されるべきだ。
0 件のコメント:
コメントを投稿