2008/03/20

ラッシャーのエッセイ(グラズノフ「協奏曲」)

シガード・ラッシャー Sigurd Rashcer氏が、グラズノフの「サクソフォン協奏曲」について書いたエッセイを翻訳してみた。委嘱者本人の口から語られる情報は、何にも増して説得力がある。エッセイの出典はイマイチ良く分からないのだが、1980年代に書かれたことはほぼ間違いない。

オリジナルの文章は、ここから参照できる。転載許可は取っていないので、まずかったら消します(といっても、この記事を書いたラッシャー氏も亡くなっているのだし、誰に許可を取れば良いというのだ?)。

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Alexandre Glazounov: Concerto pour Saxophone Alto avec l'orchestre de cordes
by Sigurd Manfred Rashcer

サクソフォンとオーケストラのために書かれた協奏曲は数あれど、アレクサンドル・グラズノフ Alexandre Glazounovの「協奏曲 Concerto」は重要な位置を占めていると言えるだろう。もっとも最初期に書かれた協奏曲の一つであると言うだけでなく、現在での演奏回数の多さも随一であり…プロフェッショナルなサクソフォン奏者を見渡せば、演奏経験がない者を探すほうが難しい。20世紀を代表する音楽家の一人であるグラズノフは、どのような経緯を経て、この協奏曲を作曲するに至ったのだろうか?きっかけは、1933年の出来事である。

1933年の晩秋(12月14日)、Societe Musicale Russeによるコンサートが、パリのTusse音楽院で開かれ、グラズノフ作曲の「サクソフォン四重奏曲作品109」が演奏された。ちょうどそのとき私はパリに滞在しており、その演奏を聴くことができた。それは素晴らしいものだった。今でも、4本のサクソフォンの均一なサウンドを思い出すことができるほどだ…あまりの興奮に、私は自分の手が真っ赤になるまで拍手をし続けた!長い長い喝采は、演奏者に対してはもちろんのこと、作曲者に対しても向けられたものであった。ホールには作曲者が臨席しており、背が高く、白髪を湛えたグラズノフは、客席からゆっくりと立ち上がった。彼は優しい笑顔を浮かべ、聴衆の拍手へと応えたのであった。生涯、数多くの喝采を受けてきたグラズノフといえど、あの晩の拍手は特別なものであっただろう。

興奮した勢いで、私は楽屋へと向かっていた。私はフランス語でこの興奮の様子を表し難く、かわりにグラズノフの手を取ってこう言った。「あなたのためにサクソフォンを演奏させてくれませんか?」

まるで父親のような声でグラズノフが答えて言うことには「おい君!私はかれこれ50年間近くも、サクソフォンについて知っているんだよ!」私はそれでも引き下がらずに嘆願し、ようやく訪問の約束を取り付けることができたのだった。

次の日の朝、私はBologna sur Seineに位置するグラズノフのアパルトマンを訪ねた。ためらいつつも階段を登り、呼び鈴を押すと…「おはようございます、ムシュー!どうぞお入りになって!」と、グラズノフのご令嬢が私を招き入れてくれた。音楽室へと通された私は早速楽器の準備を始め、グラズノフが音楽室に入ってくる頃にはもうサクソフォンを組み立て終わっていた。

「さあ、吹いてくれたまえ!」と、グラズノフ。私はここぞとばかりに、吹き始めた。小さい音、大きい音、低音から高音、速いパッセージ、カスケード…。

「素晴らしい!君は、どこから来たのかね?名前は?」グラズノフは多くの質問を私に投げかけ、私は時に言葉でなく、楽器で答えねばならないこともあった。私が協奏曲を書いてくれないか…ということをそれとなくほのめかすと、「ああ、君みたいなすばらしい音楽家のためならば、喜んで書こう」と、葉巻をくわえながら、私を笑顔で見て答えてくれたのであった。その後、数週間のうちに何度かグラズノフのもとに通い、サクソフォンのことに関してディスカッションを行った。

その後、私はデンマークのコペンハーゲンの住まいに戻り、しばらく過ごしていると、協奏曲のスケッチが完成したとの手紙が届いた。そして間もなく、独奏パートの楽譜が郵送されてきた。譜読みののち、私は再びグラズノフのもとを訪ね、彼の前で協奏曲のソロパートを演奏してみせ、いくつかの指示を頂戴した。指示は細かいところにまで及び、辛抱強くディスカッションが続いた。また、自作のカデンツァ(※1)を作曲して持っていったところ、グラズノフは何回か聴いた後に、演奏しても良いと言ってくれた。

この、ごくプライヴェートなリハーサルは、私にとってまさに忘れ難い経験であった。音楽に関して言われたことだけでなく、グラズノフの声、一つ一つの表情、音楽室に置かれていた家具までも、半世紀を経た今日にあっても、はっきりと思い出すことができる。

協奏曲の完成後、彼は私に、56ページに及ぶ自筆スコアを手渡してくれた。最初のページに書かれた献呈辞には、こう書かれていた。「A Mr Sigurd M. Rascher, 4 May 1934, Bologna s/S. Alexandre Glazounov」

こうして生まれたグラズノフ「協奏曲」の世界初演は、スウェーデンのNykopingに位置する聖ニコライ教会にてTord Benner指揮のもとに行われた。1934年11月26日のことである。そして次の日には、同じ指揮者のタクトの下、Norrkopingでの演奏が行われた。それから数年間にわたって、オスロ、コペンハーゲン、チューリッヒ、ストックホルム、ロンドン、メルボルン、オーストラリア、タスマニア、ミネアポリス、ケルン、ヒルヴェルサムなどで、50回以上に渡って再演を行った。

グラズノフの国際的名声にもかかわらず、しばらくの間、この「サクソフォン協奏曲」楽譜の出版はなされなかった。1934年の9月2日と11日にグラズノフが私に宛てた手紙によると、「残念なことに、まだ出版社を見つけることができていません」とのことであった。パリのAlphonse Leducが出版を決めたのは、だいぶ後になってからである。表紙には、このように記されていた。

A. Glazounov et A. Petiot - CONCERTO en Mi Bemol pour Saxophone Alto avec accompagnement de piano - Alphonse Leduc

そして、このような注釈が付与されていた:Existe egalement pour Saxophone-alto et Orchestre a cordes

これは、逆が正しい。本来オーケストラとサクソフォンのために書かれたものであるから、正しいタイトルは「Concerto for Saxophone Alto avec l'Orchestre de Cordes」のはずである。これは、自筆スコアの表紙にも書かれていたことだ。そして、注釈として「Existe egalement pour Saxophone-Alto et piano」とされるべきである。A. Petiotが書いた原稿は、グラズノフの意図からは外れているものである。後の版には、A. Petiotの名前は見られない。

しかし、これだけは明確である。初版の浄書前に、ソロパートが変更されてしまっていたのだ。練習番号[24]の前3小節間には、8分休符など無かった。そこまでの小節と同じように、オクターヴの8分音符が書かれていたはずである(※2)。それに、最終部の8va.指示に、ad libの但し書きなどされていなかったはずだ。

グラズノフが話してくれたことには、ある日グラズノフのもとを、パリの一流のサクソフォン奏者が訪れ、私がグラズノフの前で吹いて見せた高音域のことについて話が及ぶと、「我々はそのような高音を出すことはできない。我々はフレンチ・スクールのスタイルを学んでいるのだから」と言ったという。

また、他所で出版されたものに関しても修正が必要なものがある。1974年の6月3日から6日にかけて、ボルドーにおいて行われた世界サクソフォンコングレスのパンフレットには、こんな解説が記されていた:アレクサンドル・グラズノフは、楽譜の出版によってサクソフォンをプロモーションしたいと考えていたAlphonse Leduc氏(サクソフォン奏者)のために「協奏曲作品109」を作曲しました。

これは事実に一致するか?

上に挙げたほとんどのことは、将来的に、音楽学者の興味の対象となるものである。我々演奏家にとっては、「協奏曲」そのものが興味の対象であるため、タイトルや解説といったものはちょっとした注釈に過ぎない。

本協奏曲は、単一楽章で書かれてはいるが、はっきりと「Allegro moderato」「Tranquillo」「Allegro」の3つの部分に分かれている。熟達の域に達した、折り紙つきの主題の展開法は、めくるめく楽曲自身を変身させ続けていくのである。サクソフォンによる抒情的な表現は、この後期ロマン派の作品の中に、最大限に表出する。この作品は、我々にとっての最も基本的なレパートリーと言えるのだ。

我々サクソフォニストは、アレクサンドル・グラズノフに、深く感謝しなければならない。

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「※1 自作のカデンツァ」「※2 練習番号[24]の直前」のそれぞれに関して、ラッシャーのグラズノフ演奏とミュールのグラズノフ演奏を聴き比べるためのページを作成しましたので、ぜひご覧ください。

ところで、最終部の2つのセンテンス、"The lyric expressivity of the saxophone comes forth in this late-romantic work to best advantage. It belongs to our basic literature."…に関して、どうも上手い訳を見つけることができませんでした。どなたかご教示いただければ幸いです(→追記:kimmyさんに、良い訳を教えていただきました。ありがとうございました!)。その他、翻訳のミスなどありましたらご指摘ください。

5 件のコメント:

  1. こんにちは、おひさしぶりです。良い出典、素晴らしい訳出ですね!!
    最後の2行読んでみました。

    サキソフォンの抒情的な表現は、この後期ロマン派の作品において最大限に引き立てられて現れる。この作品は我々の基本的な楽曲に属する。

    あたりで。literatureは作品でもレパートリーでもよい気がします。
    雲井さんの四重奏曲の解説と合わせてグラズノフに想いを馳せました。
    Letters from Glazounovの続きも、このシリーズに加わることを期待しています。。。

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  2. 素晴らしい。!
    大拍手です。

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  3. > kimmyさん

    ありがとうございます!おお、なるほど。best advantegeとliteratureをそう捉えるのですか!勉強になりました。

    「Letters from Glazounov」のこと、すっかり放置していました。そうですね、続きを訳さないといけませんね(笑)。

    > あかいけさん

    いつもありがとうございます。もうちょっと早く翻訳に手をつけるつもりだったのですが、ずるずる延びてしまいました。

    ラッシャー関連の面白そうな文献を見つけた暁には、また訳してみたいと思います。

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  4. 素晴らしい訳です!!


    文面から透けて見えるラッシャー氏の性格や、彼の言うところの「パリの一流のサクソフォン奏者」の陰に隠れてけっして知名度のあるとはいえない氏について、もっと知りたくなりました!

    これから先、演奏やその音源も含め、もっと多くの人が知ることができるようになればいいのになと思います。

    ……これは他のサクソフォンの貴重な音源についても同じですが。。

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  5. > Pさん

    同感です。私も、ラッシャー氏の功績がもっと多くの方に知られることを望んでいます。

    日本では評価は特に進んでいないため、これに関しては私がやらねばいけないと思っています。ボチボチとネット上にて、文献や音源等を紹介していければ良いなと思っています。

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