2007/11/10

ウォーレン・ベンソン Warren Bensonへのインタビュー

ウォーレン・ベンソンは、サクソフォン界へ「エオリアン・ソング(コンチェルティーノ)」や「ドリーム・ネット」を提供していることでも知られる、アメリカの作曲家。ベンソンのことを調べていたら、面白いページを見つけた:作曲家・音楽理論家のチャールズ・ロチェスター・ヤングが、ベンソンにサクソフォーンに関連した事柄をインタビューした模様を全文公開しているというサイトだ。

http://www.uwsp.edu/music/cyoung/an.htm

出典は、1998年にウィスコンシン大学で開かれたサクソフォンシンポジウムへ提供された資料から。インタビュー自体は、1992年に行われたようだ。

大変興味深く、示唆に富む内容であったので、全文を和訳して載せてみます。特に転載許可は取っていないので、まずかったら消します。また、翻訳作業に疲れて現在のところまったく校閲を行っていないので、間違いなどあったらご指摘ください(特に詩やら絵画やらの話題のところはワケが解らなかったため、ボロボロかも…)。

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ウォーレン・ベンソンは、1924年デトロイトに生まれ、幼少より打楽器とホルンを学んだ。デトロイトのCass工業高校を卒業後、ミシガン大学の音楽科へ入学する。大学では、音楽理論の分野で修士課程を修めると共に、ホルンを演奏したり打楽器を教えたりしながら過ごしたという。卒業後は、デトロイト交響楽団のティンパニストとなり、バーンスタイン、オーマンディ、ライナー他著名な指揮者と共演した。

1950年、ベンソンはフルブライト奨学金を得、ギリシャのアナトリア大学へと留学する。そこで彼は、アナトリア大学合唱団を組織した。アナトリア大学合唱団は、ギリシャにおいては当時初めてのco-educationalな合唱団であり、現在も存続している。

1952年にアメリカに戻ると、ノースカロライナ州のマーズ・ヒル大学で管弦楽団と吹奏楽団の指揮を担当した。その翌年、ニューヨークのイサカ大学へと転勤し、コンポーザー・イン・レジデンスと打楽器講師の職を務めた。イサカ大学では音楽史専攻を新たに開設し、東海岸では初となるパーカッションアンサンブルを結成した(アメリカでは二番目)。また、Ford Foundarion Contemporary Music Projectの顧問を務めたり、Comprehensive Musicianshipプロジェクトの立ち上げに参加するなどした。

1967年の9月、ベンソンはイーストマン音楽学校の作曲科教授に着任。1971年にLillian Fairchild賞を受賞、1976年にはCitation of ExcellenceをNational Band Associationより贈られ、さらに1980年から81年にかけては、イーストマン音楽学校よりKilbourn Prof.の称号を贈られ、Guggenheimフェローとなった。

現在でも、ベンソンはアメリカ、カナダ、南アメリカ、ヨーロッパの音楽祭に招かれ、講演を行っている。35以上の国で彼の作品が演奏され、30作品がレコーディングされ、100以上の作品が出版されている。また、United States Information Agencyのアドバイザー、United States Information Services Libraryの講師、Voice of Americaのコンサルタントを務め、1970年にArgentinian Ministry of Cultureより名誉ディプロマを授与された。また、National Endowment for the Artsより多くの助成金を得、1960年よりASCAP主催のSerious Music Awardsを度々受賞している。

インタビューは、1992年に行われた。

Charles Rochester Young(以下Y): あなたは、特に歌曲、そして打楽器や管楽器のための作品の方面で非常な多作家として知られていますが、それらのジャンルへとあなたを向かわせるきっかけとなったのは何なのでしょうか?

Warren Benson(以下B): 私の音楽仲間に管楽器奏者が多かったのです。彼らは、自分のレパートリーの中に存在しないような音楽を私に求めましたが、そのことが私を管楽器に対する興味へと向かわせるきっかけとなったのです。当時のオーケストラが演奏する曲目といえば、古典ばっかりで、アメリカ産の新作を演奏しようとはしませんでした。そこで、私は吹奏楽のために特に作曲を多く提供し始めました。吹奏楽…このジャンルは本当に素晴らしい!多くの人は私を吹奏楽作曲家と考えているようですが、実際は吹奏楽よりもほかのジャンルへ提供した曲目のほうが多いのです。今までやったことのないことにチャレンジするのは、楽しいものです。

Y: 初めてサクソフォンというジャンルに触れたときの事を覚えていますか?

B: 私の隣人の一人が、サクソフォンを吹いていたのです。それは、私がまだとても若い頃のことです。彼はソプラノからバスまで、5種類のサクソフォンを所有していました。ですが、私はその楽器に特に感銘を受けず、次第に文学へと興味を持つようになりました。ところが1940年のことです。Leonard Smithが私に、ギャルド・レピュブリケーヌサクソフォン四重奏団のレコードを聴かせてくれたのです…それは素晴らしいものでした。また、(リード楽器の楽団として有名な)シェップ・フィールズ楽団がミシガンのアナーバーに来たのです。それは私がミシガン大学の学生だった、1944年のことでした。シェップ・フィールズ楽団には、多くのサックスが含まれていました。数本のソプラノとアルト、2本のテナー、バリトン、バスと、計12か13本のサックスです。金管楽器は一本も含まれていませんでした。私は、20世紀初頭から今日までの、ジャズサックス・アンサンブルの歴史に魅了され続けています。こんにち、パーシー・グレインジャーが編成として取り上げたような、サクソフォンのラージアンサンブルを立ち上げるような動きが高まっているのは、興味深いことです。ですが、正直に言うと私はバスサクソフォンの見過ごされ方には失望しています。現代のウィンド・アンサンブルには、機敏なバス音域楽器が欠けていると思います。バスサクソフォンこそが、最も俊敏なバス楽器であり、さらに楽器としての際立った強靭さを持っています。ですが、現代ではその重要さが見過ごされているといっても過言ではないでしょう。バスサクソフォンがないこと、それは吹奏楽の中で大きな"穴"となっていると思います。

Y: ジャズへの興味が、あなたをサクソフォンへと向かわせるきっかけになったということですか?

B: いいえ、違います。しかし、サクソフォンという楽器に対する概念形成の一因となっています。
ジャズサクソフォン奏者は、とても自分がもつ音色のアイデンティティを気にかけているようです。あなたが、何の曲でも構わないのですが…ジャズプレイヤーの吹く2、3の音符を聴いたとしましょう。すると、有名な奏者ならば、たちどころに誰が吹いたのか、ということを認識することができます。音色とフレージングの点において、誰かの真似をするということは、彼らは許されれないのです!
私は長年の間、管楽器というジャンルを見てきましたが、サクソフォンに関して言えば、誰もがそれに向かって努力すべき「理想的な」サウンド、「黄金の」音色、といった観念があります。それは、人の声に似ています…愛や憎しみといった自己の感情を表現するために、あなたは声の質を変えることがあるでしょう?もしそうでなければ、それは自己を失っているということに他ならないのです。「ジャズサックス吹きは、彼らが言いたいことをどう表現すればいいかを、本当に良くわかっている」これはヴィンセント・パーシケッティが私に向かって言った言葉です。この言葉こそが、全てを表していると思います。しかし、私をサクソフォン音楽へと向かわせるきっかけの最大のファクターが、ジャズサクソフォンとの出会い、というわけではありません。そうではなく、ジグルート(シガート)・ラッシャー Sigurd Rascherとの出会いこそが、私をサクソフォンに目覚めさせた最大の出来事でした。

Y: ラッシャーとは、どのようにして知り合ったのですか?

B: 私は、ノースカロライナ州のBrevard音楽センターで講師の職にありました。ラッシャーは、そこのアーティスト・イン・レジデンスだったのです。彼は私のために何曲か演奏してくれたのですが、そのフラジオ(アルティッシモ)音域に私は大変興味を抱きました。当時、ラッシャーほど高い音を演奏できる者はいなかったと思います。そして最初の出会いから6、7年に渡り、音楽的な付き合いをしました。私たちは、家族のようにとても良好な関係を持っていたと思います。インゴルフ・ダール「協奏曲」の初演は、我々が行ったのですよ。そこで演奏したのは、今日演奏されるバージョンよりも力強い、オリジナルのバージョンでした。
私がラッシャーと出会うまでに、彼はすでに50以上のサクソフォン作品を委嘱し演奏していました。しかも、そのどれもが「本物の」作曲家の手による作品…イベール、ヒンデミット、ブラントらによるものだったのです。ですから、彼が私に「コンチェルティーノ」を委嘱したとき、私はたいそう喜んだものです。私はまず中間楽章として「エオリアン・ソング」を1953年までに作曲し、残りの楽章を1954年までに仕上げました。ラッシャーは1955年の1月に私の「コンチェルティーノ」を初演し、その後数え切れないほどの再演を行ってくれました。特に「エオリアン・ソング」はラッシャー以外の奏者の手によって何千回と演奏されています。最近ではプリズム・サクソフォン四重奏団 Prism Saxophone Quartetが伴奏がウィンド・シンセサイザーであるバージョンをツアーで演奏しました。

Y: それは興味深いですね!「エオリアン・ソング」には、吹奏楽、ピアノ、ウィンドシンセ以外の伴奏バージョンも存在するのですか?

B: ええ、ありますよ。私はラッシャーとその娘のカリーナ・ラッシャーのために、オーケストラもしくは吹奏楽伴奏とアルトサクソフォンソロ、そしてソプラノサクソフォンのオブリガートを付与したバージョンを作曲しました。それ以外のバージョンが存在するかどうかは、ちょっとわかりかねますが…。ちなみにその楽譜は、もともとMCAが所有していましたが、Theodore Presserに版権が渡されました。ですが、現在のところ出版はされていません。

Y: オリジナルバージョンの「エオリアン・ソング」が絶版となっていると聞きましたが、本当ですか?

B: そうです。現在は絶版になっていて、誰にも楽譜を提供できません…ですが、そのうち何とかするつもりです。

Y: 「エオリアン・ソング」に限らず、あなたのサクソフォンのための作品は、高い楽器のコントロール能力を要求するように思います。そのことを意識して作品を書いているのですか?

B: はい。楽器のコントロール能力は、見過ごされているように思います。多くのサックス吹きは、2/3程度のテクニックまでは到達しているのですが、それ以上の鍛錬をしている奏者はあまりいません。ドナルド・シンタ Donald Sintaがそうであったように、全ての音域にわたって、幅の広いダイナミクスで楽器をコントロールして演奏できることが重要だと考えています。あなたも、空気に溶けていくような繊細なディミニュエンドを生徒に要求するでしょう?私は、そのような繊細な音量のコントロールこそ、多くの奏者がそれに向かって努力すべきゴールだと考えています。サクソフォン奏者は、自分の人生において、いかなる速さのパッセージをも演奏する能力、どこまでも大きい音とどこまでも小さい音のコントロール、そしてあらゆる種類のヴィブラート、これらのことを身につけるべきなのです。「音楽は美しくある必要はない、そうではなく作曲家・演奏者が経験した全てのことをメッセージとして伝えるべきだ」という言葉に、私は大変影響されています。もし音楽が、人間の状態を全て照射するようなものだとしたならば、ヴィブラート、ダイナミクス、アーティキュレーション、テンポ…これらの自由なコントロールを十分に身につけておくことは、必要でしょう。
楽器のテクニックと様々な奏法を身につける勉強のために、Thom David Mason, Ron Caravan, Larry Livingston, フレデリック・ヘムケ Frederic Hemkeらに奨学金を与えました。ドナルド・シンタは、楽器のコントロールの点において驚くべき到達をみせました。フレデリック・ヘムケは、私の「ドリーム・ネット」において、私が要求した様々な響きを見事に奏でてくれています。これらの成果が実を結んだとき、私は大変興奮しました!やはり、演奏家が作曲家にこう言わせるほどでないといけませんね「あなたが私に要求したことは何だろうと、学んでみせましょう」。

Y: あなたは過去40年間、何人もの著名なサクソフォン奏者と共同作業をおこない、サクソフォンのレパートリーを形作ってきました。彼らとの出会いの中で、あなたがあなた自身の考えを変えるほどに至ったような経験をいくつか話していただけませんか?

B: フレデリック・ヘムケとは、私がラッシャーとともにミッドウェストバンドとしてシカゴのオーケストラコンヴェンションに参加していたときに初めて会いました。そのとき、ミッドウェストバンドは私の古いバンドのための作品をいくつか演奏してくれたのです。彼と話したこと、さらに、ドナルド・シンタとも良く覚えています。また1966年には、International Society for Music Educationの最初のミーティングがInterlochenで開かれたときに、ジャン=マリー・ロンデックス Jean-Marie Londeixに会いました。そのオープニングコンサートでは私のバレエ音楽が演奏されたのですが、その晩、私はロンデックス夫妻をディナーへと誘い、トラバースシティへと繰り出したのです。その席上で、ロンデックスに私の友人であるシンタとジャック・クリプルを紹介することを約束しました。そしてシンタのコテージへと赴き、朝の3時までオープンリールのテープを聴いたり、音楽のことやサクソフォンのことについてしゃべったりしながら楽しい時間を過ごしました。
サクソフォニストではないですが、カレル・フサ Karel Husaも私の大切な友人の一人です。1954年、彼はニューヨークのイサカ大学で教鞭を執るべく、初めてアメリカへと渡ってきました。ちょうどそのころ、私はニューヨークに住んでいたのです。すぐに我々は親しくなり、家族ぐるみでの付き合いをするようになりました。今でもその関係は続いています。ある晩、ラッシャーが私達の家に泊まっていました。そこで私はカレル・フサと彼の家族をディナーへと招待し、ラッシャーを彼らに紹介しました。ラッシャーがぜひカレル・フサの家族のために演奏したいといったので、私はオフィスの鍵を貸しました。数時間、フサの家族はラッシャーの演奏を楽しんでいたようです。フサの「エレジーとロンド」は、その出会いがきっかけとなって生まれました。フサと私は、ロチェスターでの初演を聴くためにロチェスターまで赴いたのですよ。
その後のことですが、サクソフォン・コングレスがシカゴで開かれたとき、私はロンデックスによるデニゾフ「ソナタ」のアメリカ初演に際して、スピーチを行うべく招かれました。彼は重音など、様々なテクニックによってその曲を演奏し、聴衆は大変なショックを受けたのです!シカゴのコングレスでは、私の友人達…ラッシャー、シンタ、ヘムケ、ロンデックス、ルソー、フレデリック・フェネル、セシル・リースンと楽しい時間を過ごしました。また、ラリー・ティールにも会いました。彼は、私がデトロイト交響楽団にいた頃からの知り合いでした。このコングレスは、サクソフォンという楽器が初めて産声をあげたというべき大変興味深いイベントでした。ラッシャーの高音域も、基本的な奏法だと思えるようになりました。シカゴのコングレス以来、アメリカではアルトに限らず様々なレパートリーが作曲されています。私がそれらのレパートリーの一部を手がけられたこと、本当に嬉しく思います。

Y: あなたは詩と絵画を趣味としていると聞きましたが、それらはあなたの書く音楽へ影響を及ぼしていますか?

B: 私は4歳か5歳のころから詩を書き始めました。私は詩人ではありませんから、私の書く詩がそれほど重要になるとは思っていませんでした。私はただ単に楽しみのために、そして複雑な感情を持つ自己を表現するために詩を書いていました。思うに、詩は自己表現の簡潔な手段の一つだと思います。良い詩とは、最小限の言葉で大きなインパクトを与えるようなものです。言葉のひとつひとつが、くっきりと力強く「しゃべって」いるのです。そしてそれらの言葉を並べてゆくこと、これが凄い。言葉を並べると、それらが互いに影響しあって劇的に意味を変えてゆくのです。詩を書くことは、「表現」と「意味」に対して、私を敏感にさせるきっかけとなったと思っています。
私の興味のひとつに、このような事実があります:曲を書いている最中というのは、完成された作品を扱っていることになりますが…これから完成されるべき作品の全体構造が、私がいま書いている音楽にどのように働きかけているのか、興味があります。私は、自分の書く音楽において旋律線の抑揚に気を使っていますが、また「歌う」ことにも気を使っています。歌は、音楽的表現の最も基本的な手段ですから。
絵画も同じです。私は妻(プロの絵描き)からものの見方、そしてどのように見るかということを、42年間に渡りレッスンで教えられてきました。彼は視覚世界というものに深く関わり、その洞察力を磨いてきました。その結果、(たとえ今見ているものが初めて見るものであっても)普段よりも注意深く見ること、注意深く感じること、そういったことを学んだのです。音楽の質を感じ取るとき、この注意深い洞察力は重要だと感じています。注意深く観察することは、しばしば軽視しがちになっている対象の中に、新たなものを見つけるきっかけとなることと思います。

Y: 1970年のシカゴの世界サクソフォンコングレスへの参加以来、あなたがサクソフォン界に対して何か考えを変えたことはありますか?

B: サクソフォンコングレスは、サクソフォンのレパートリーに、種々の新しい、素晴らしい作品が存在するということを知るきっかけになりました。アメリカのサクソフォン奏者に、コングレスでもなければ知ることのないであろう、世界に拡がるサクソフォンの様々な作品を知らしめた、という点から見ても重要であったと思います。コングレスに参加した人たちはみな、今まで知りえなかった世界中の作品に衝撃を受けたのです。演奏家も、疑う余地なく誰もが素晴らしい。世界中で生まれた作品が、奏者のテクニックに影響を及ぼしていったとも言えるのではないでしょうか。

Y: サクソフォン奏者は皆、クラシック音楽界へサクソフォンを受け入れてもらおうという努力を積み重ねてきました。このことに関して、あなたはどう思いますか?

B: そのことに関しては、サクソフォン奏者だけでなく作曲家にも関係しているでしょう。ある作品が出版されるように努力する必要があるような時代は、過去のことです。また、ある作品が演奏されることを保障される時代も、過去のことです。私は、サクソフォニストは皆、重要な作曲家、興味ある作曲家、そしてまだサックス作品を書いていないが、良いと思う作曲家、を意識すべきだと思います。作品を書いてくれそうな作曲家には、コンタクトすべきです。もしかしたら、ニューヨークのタウンホールやアリス・テュリーホールのように魅力的な演奏環境で演奏するよりも、委嘱にお金がかかるかもしれません。ですが、単に嘆願するだけでは良い作品を書いてもらえないかもしれません。
ところで、どれだけの音楽学者や音楽理論家がサクソフォン音楽をまじめに捉えているのでしょう。サクソフォンコングレスのような場所に彼らを呼び、一緒に議論しましょう。コングレスには、サックス吹きはたくさんいますから、もっと積極的に作曲家、音楽学者、音楽理論家を読んでディスカッションを行うべきです。そうでもしなければ、音楽教育の一環として取り入れられるほど、サクソフォンが認知されることはないでしょう。フルート、バスーン、クラリネット、ホルン、トランペットは音楽学者や音楽理論家にまじめに取り上げられています。サクソフォン界を発展させたくば、彼らに、サクソフォニスト達がこの35年~40年の間に取り組んできたことを知ってもらい、評価してもらうべきです。そして彼らとサクソフォンのことについて真剣に議論すべきです。…サクソフォンコングレスへの会場までの、彼らの旅費を負担してでも。いや、それだけの価値が、間違いなくあると思います。

Y: サクソフォン奏者に代わって、あなたの、40年にわたるサクソフォンに対する作品の提供と音楽的洞察に、感謝申し上げます。ありがとうございました。

B: こちらこそ、ありがとう。

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