2022/07/09

ジャニーヌ・リュエフについて(MeMより)

Musica et MemoriaのJeanine Rueffにまつわる部分を翻訳。

http://www.musimem.com/prix-rome-1940-1949.htm

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1999年9月22日、マルセル・ビッチュとジェラール・カルヴィは、ジャニーヌ・リュエフを墓地へと送り出した。彼らは、パリ音楽院在学中にジャン・ギャロンの和声クラスでトリオを組んだが、そのきっかけは、相互の高い共感によるものだった。リュエフは、40年近く教えていた国立高等音楽院を数年前に退職していた。

1922年2月5日、パリで生まれた彼女は、クロード・ダルヴァンクールが院長を務めていたパリ音楽院に若くして入学した。この頃、ダルヴァンクールの働きによって、音楽院は広く認知されることになった。例えば、有名なカデット・オーケストラは、パリにおいて最も人気のある楽団の1つになったほどだ。リュエフは、トニー・オーバン、アンリ・シャラン、ジャン/ノエル・ガロン、そしてアンリ・ビュッセルといった巨匠のもとで教育を受け、1948年にはオデット・ガルテンローブに次いで次席を獲得した。2年後、音楽院でマルセル・ミュールのサクソフォン・クラスとユリス・ドゥレクリュスのクラリネット・クラスの公式ピアノ伴奏者となる。これらのクラスは、サクソフォン奏者のジャン=マリー・ロンデックス、クラリネット奏者のミシェル・ポルタルを輩出するなどした。1960年から音楽理論、1977年から和声を教え、1988年に退職した。ジャン=ミシェル・ジャールは彼女の教え子の一人である。また、C.A.E.M.のCentre national de préparationにてソルフェージュ・クラスの教授を務めた。

作曲家としても重要な作品を残した。1945年には早くもピアノ五重奏曲でPrix Favareille-Chailley-Richezを受賞している。この作品は、当時としては極めてモダンなもので、ジャズのテクニックからインスピレーションを受けていると思われる箇所もある。陽気で、ユーモラスでさえあるこの曲は、Lent et Allegro、Lent、Vifの3楽章で構成されている。バストロンボーンのためのConcertstückeは、1999年にゲブウィラーで開催された国際トロンボーン・コンクールの課題曲となった。フルート、バソン、コルネット、トロンボーン、チューバ、コントラバス、チェンバロのための作品、リードトリオのための3曲、サクソフォーンのための四重奏曲、室内オペラ(La Femme d'Enée, 1954)、シンフォニエッタ(1956)、教育的作品も書いている。1997年、L'ensemble Saxallegro(サクソフォン:Hannes Kawrzaとオルガン:Florian Paqitschのデュオ)は、ウジェーヌ・ボザ、ピエール=マックス・デュボア、ジャック・イベールの作品とともにリュエフの「シャンソンとパスピエ」を録音した。

2000年4月、ルデュー・サクソフォン四重奏団はマントンのカルノレス宮でコンサートを開き、リュエフに敬意を表して、ブルターニュの舞曲「パスピエ」を含む6曲からなる「四重奏のためのコンセール」を演奏した。

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向かって左から3番目の女性が、若き日のジャニーヌ・リュエフ。アンリ・ビュッセルの作曲クラスの集合写真である。ちなみに、一番左がGeorges Delerue(サクソフォン作品「Prism」が思い浮かぶが、一般的には映画音楽で有名、アカデミーのオリジナル作曲賞を獲得したこともある)、写真の一番右(ピアノに座っている手前の男性)がJean-Michel Damase(サクソフォン界隈では言わずと知れた…!)だ。

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