2008/12/12

吹奏楽について書く(その1)

私は現在、吹奏楽から少し離れた所に身を置いている。いろいろ理由はあって、大学の吹奏楽団からの引退に伴い身近で吹奏楽に取り組む環境がなくなったこと、サクソフォンの世界のほうが刺激的な作品や録音が多いこと、大人数よりも少人数のほうが動きやすいこと、などである。そういった多くの理由のうちの一つに、商業主義に走りつつある吹奏楽界を、外部から慎重に観察していたいということがある。まあ、これは理由のうちの3%くらいなのだが。今日はそのことについて少し書いてみたい。

特にスクールバンドや一部のアマチュア団体についていえば、吹奏楽界はコンクール至上主義である。コンクール至上主義について悪く言う人も一部いるようだが、私の考えとしてはそれ自体に問題はない。なんだかんだで、競争がなければよい文化は生まれないと思っているからだ。芸術という分野は、天才が現れるか競争が続かないと、停滞するからである。

視野をローカルな部分に戻してみても、コンクールで勝つことの喜び、というのは良いものなのだ(かくいう私も、コンクールやアンサンブルコンテストで勝つと嬉しいです、はっきり言って)。苦労して練習した結果が報われることは、ほとんどの人がうれしいものだと思う。喜びを感じなかったり、負けても冷静だったりするは、たぶんほとんどの場合が足下を掘り下げてきちんと練習してないせいだ。

そんなわけでコンクール至上主義、大いに結構!と言えるのだが、問題はその先だ。国内の吹奏楽界は、おそらく30年~40年近くにわたってコンクールに依存しながら成長を遂げてきた。その進化は目を見張るものがある。いろいろと失うものはあったが、結果として技術レベルの進歩は相当なものを見せたと言えるだろうし、世界を見渡しても吹奏楽がこれだけ一般に浸透している国は少ないのではないだろうか。

その中で、近年不穏な動きが出てきているのである。そのコンクールという場で、「なんだかよくわからない作曲家」の「なんだかよくわからない作品」が、幅を利かせはじめているのだ。しかも、その「なんだかよくわからない作品」のド派手な演奏効果と演奏が評価されて、その「なんだかよくわからない作品」がさらに有名になり、結果として全国的に有名になり、ますます多くのスクールバンドに演奏されるという…。

続く。

6 件のコメント:

  1. わかりますわかります。
    「これどっから発掘してきたんだよ」
    って作品をたまに見かけます。

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  2. > tetsuさん

    こんにちは、コメントありがとうございます。初めまして(でしょうか?)。

    発掘した作品が音楽的に良いものであればかえって素晴らしいですし、大いに結構と思うのですが、くだらない作品だったりすると目も当てられません。

    最近流行のあの×××とかいう作曲家の作品、なんとかならんもんでしょうか。コンクール至上主義は、悪い方向に傾くとどんどん悪くなっていくようです。

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  3. コンクールについてのご意見・考え方、共感して拝読いたしました。高校3年間をどっぷり吹奏楽部で過ごし、社会人バンドの副指揮者を務めていたこともあるのですが、最近は全く無縁となっています。そんな現状もあるのですね。でも、過去に参加したコンクールの会場で、演奏の「効果」はさておき少々の演奏上の傷や不具合はあるものの、しっかりと「音楽」が聞こえてくる演奏がことごとく評価されていない場面を幾度も見ていますので、さもありなんと思いました。
    コンクール至上主義の中学・高校バンドで一年の大半を課題曲・自由曲に明け暮れてしまうのもどんあもんかなぁ、とも思っています。

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  4. > Sonoreさん

    私も吹奏楽からはすでに3年以上ご無沙汰なのですが、時々耳にする現状は思った以上にひどいようです。

    吹奏楽に限らず重要なのは、技術よりもなによりも音楽性です、というのは木下直人さんの受け売りですが、私も常日頃よりそう思っています。それを求めて、40年~50年も前のギャルドの録音を引っ張り出してきて聴いて
    いるのです…。

    大量生産・大量消費の時代ならではといいますか、芸術の分野では上辺だけが評価されて、本当に素晴らしい演奏・素晴らしい作品は淘汰されていくのですね。とても悲しいことですし、それを何とか変えたいという願いがあります。

    私はいちアマチュアにすぎませんから、こうしてブログを書くことしかできないのですが…。吹奏楽はもちろんですが、とりあえずこの流れがサックス界に入ってくるのは何としても食い止めたいですね。

    なんだか、ちぐはぐなコメントになってしまいました。

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  5. 技術は音楽を表現するための道具にしか過ぎないと思っています。しかし、いくら技術が高度であっても、音楽を立派に表現できるというわけではありませんし、そういう能力を技術とは呼びたくありません。
    kuriさんがご心配されている流れ、フルートの世界にはとっくに入り込んでいます。
    音楽性という言葉を僕はもう長い間使わなくなっています。木下さんが言われている意味もよくわかりますし、範囲を限定すれば完璧に共感できます。ではなぜ使わなくなったかというと、音楽はキャッチーボールでもあり、どんなに素晴らしい球種を投げられても、それを相手がキャッチできなければ完成しない(再創造できない)面があるという思いが強いのです。
    現代ではプロ奏者ほど、音楽に関してアマチュアである(本当は聞き手としてのプロなんですが)聞き手の耳を通じて自分の演奏がどう聞こえているのか判らなくなっている現象があるように思えます。古きよき時代にはそんあことはどうでもいいこと(問題が起きなかった)だったのですが、現代ではそこに問題が生じていると思っています。
    わけのわからんコメントになりましたが・・・・。

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  6. Sonoreさん

    > 現代ではプロ奏者ほど、音楽に関してアマチュアである(本当は聞き手としてのプロなんですが)聞き手の耳を通じて自分の演奏がどう聞こえているのか判らなくなっている現象

    なるほど。その問題点の指摘は、なかなか示唆に富むといいますか、Sonoreさんの指摘について私もやや消化しきれない部分があるのですが(^^;じっくり考えてみたいと思います。

    やっぱり大量生産・大量消費の流れの中では、しょうがないことなのでしょうか。このような状況のなかでも、私がやるべきことは、個人ブログという声が小さい場でもいいから、とにかく発信し続けることだと思っています。

    悪い生産者はいない、悪い消費者がいるだけだ、という一見矛盾を孕んだフレーズが、現代においては通用するのかもしれません…(?)。

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