2008/06/25

Letters from Glazunov(グラズノフ「協奏曲」)

André Sobchenkoというロシア出身のサクソフォン奏者がSaxophone Journal上で書いた、Letters from Glazunovという記事がある。これは、グラズノフの書簡をもとに、彼が作曲したサクソフォンのための二作品…「サクソフォン四重奏曲作品109」と「サクソフォン協奏曲」…の作曲経緯を紐解いてゆく、というものである。あの雲井雅人氏も「素晴らしい。読まねばならぬと思う」と評すほどの興味深い内容だ。

以前、「サクソフォン四重奏曲作品109」に関する部分については翻訳したのだが(→2007年2月17日の記事)、「サクソフォン協奏曲」の部分については、ずっと懸案事項であった。ここ最近、暇を見つけては翻訳作業を進めていたのだが、ようやく終わったので、ご覧いただきたい。

転載許可をとっていないため、まずかったら消します。というか、André Sobchenkoの連絡先が分からないんですわ。困った…。あと、翻訳ミスがあったらご指摘くださいm(_ _)m

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シュタインベルクへ
1933年12月26日
今日は休み休み、35分ほど作曲をやったよ。

このころから、時系列的な手紙のやり取りを追うことができなくなる。以下の情報は、シュタインベルクによる失われた手紙のスケッチである。二重引用符付きのテキストは、グラズノフ自身の言葉である。

1934年、グラズノフは再び病に侵される。今度は、インフルエンザと気管支炎にかかってしまったのだ。3月には、彼はサクソフォン協奏曲の作曲を開始する。"ドイツのサクソフォン奏者であるシガード・ラッシャーのリクエスト…というよりもむしろ、サクソフォンでこんなことができるのか!というインスピレーションによって"…グラズノフはそのインスピレーションを受けたときの様子について、3月17日の手紙で述べている。作曲は大変早く進み、4月4日には協奏曲が完成したと、やはり手紙の中で述べている。

シュタインベルクへ
1934年6月4日
「サクソフォン協奏曲」の作曲を終えた。スコアとピアノの両方の準備ができたよ。そのうち、フランス人のミュールと、ドイツ人のサクソフォン奏者であるラッシャーの演奏を聴くことができるはずだ。この作品は、Es-durで書かれており、いくつかのセクションに分かれてはいるが間断なく演奏される。最初の提示部は、4/4のアレグロ・モデラート、Es-durから始まるが、最後にはg-mollで終わるんだ。その次にCes-dur(H-dur)で3/4のアンダンテが歌われて、展開部が続く。そして、束の間のカデンツァ。終結部は、c-moll、8/12のフーガ形式で開始する。フーガでは、それまで使ったテーマがすべて現れて、Es-durのコーダを導いていく。全体は、かなり濃密になってしまった…演奏時間は18分以内といったところだろう。伴奏は、div.部分を多く含んだ弦楽のスコアとした。ところで、曲中いくつかの場所で私は弦楽パートに管楽器の代役をしてもらうな書き方をしたんだ。それはこういった方法だよ:ある弦楽パートをオクターヴのユニゾンにして、上のパートを2艇のチェロとユニゾンにするんだ。この方法に関しては少し不安があったのだが、Yuli Konusの兄弟のMetner、それからチェレプニンにスコアを見てもらったところ、ポジティブな返事をもらったよ。それから、フォルテの場所では、ダブル・ノートをたくさん使った。ダブル・ノートに関しては、少し心配だったので、Yuli Konusに尋ねてみるつもりだ。彼とは以前、私の「ヴァイオリン協奏曲」で一緒に仕事をしたことがあるのだが、こういった区別に関するエキスパートで、あのチャイコフスキーに対してもアーティキュレーションの要求をしたことがあるそうだ。

シュタインベルクへ
1934年7月13日
「サクソフォン協奏曲」のスコアとピアノパートの準備が、すべて完了した。それと一緒に、私はこの作品を聴く機会を心待ちにしているんだ。なぜなら、私は今年のコンサート・シーズンには「Poeme Epique(Symphonic Poem)」の演奏をお願いしてしまったからだ。

シュタインベルクへ
1934年11月21日
「サクソフォン協奏曲」は、今シーズン、イングランドとスカンジナビアでの演奏会で取り上げられるはずだ。素晴らしいテクニックを持ったドイツ人のサクソフォン奏者で、シガード・ラッシャーという人物がいるのだが、彼が独奏を務めるようだ。パリでは、ギャルド・レピュブリケーヌの主席サクソフォン奏者でマルセル・ミュールという人物が、私の協奏曲を演奏したがっているよ。

シュタインベルクへ
1934年12月5日
「サクソフォン協奏曲」が、ついに初演された!スウェーデンの2つの大きな都市で、シガード・ラッシャーが吹いてくれたんだそうだ。来年、ついにパリで聴くことができそうだ。

1936年の3月21日、グラズノフは亡くなった。残念なことに、グラズノフ自身が果たして協奏曲を聴くことができたかどうなのか、ということを指し示す情報はない。ところで、グラズノフの「サクソフォン協奏曲」やそのほかの作品は、常に彼自身の「エゴ」を覆い隠すことで、完璧さを達成している。彼は、常に自分自身のアイデアや音楽的な構想を、音楽仲間や実際の演奏家に対して相談していたのだ。例えば、A.Y.Shtrimerに対する手紙の中では、こう書いている。

"親愛なるAlexander Yakovlevich、
「チェロ協奏曲」の最終更新版を送ります。ピアノスコアがいつ製版業者から出来上がってくるか、ちょっと分かりません。今日、パブロ・カザルスがパリに来るので、彼に会うつもりです。カザルスは私に、アーティキュレーション上の問題について手紙を送ってきており、いくつかちょっとした変更を私に教えてくれるようです。もしそれが良い示唆であるならば、とてもうれしいことです。おまけに、彼はすでに私の「チェロ協奏曲」を暗譜しているとのことです。"

その他、「サクソフォンと弦楽オーケストラのための協奏曲」に関しては、いくつか書くべき事実があります。ソヴィエト連邦時代、この曲はオーケストラのスタンダードなレパートリーではありませんでした。ソ連時代のもっとも有名なオーケストラである、E.スヴェトラーノフ指揮USSR交響楽団は、ロシアとソヴィエトの音楽を網羅して録音する、という企画を立ち上げていましたが、残念なことにグラズノフの「サクソフォン協奏曲」は省略されてしまいました。1936年、フランスの出版社Alphonse Leducは、ピアノ・リダクション版の楽譜に、不可解な追記を行いました。Leducは、A.Petiotの名前をセカンド・コンポーザーとしてグラズノフの隣に並べて書いたのです。しかし興味深いことに、グラズノフの書簡を辿る限りは、誰かと一緒に作業した、などということは一言も書かれていません!

グラズノフの死から36年後、1972年10月14日のことです。ソヴィエトの見識者たちは、グラズノフを、ロシアを代表する作曲家として公式にアナウンスしました。グラズノフの遺灰が、祖国に返還されることとなったのです。その遺灰は、レニングラードのAlexander Nevsky Lavraにある、偉大な芸術家たちが埋葬されている共同墓地へと運ばれ、再び埋葬されました。1970年代なかば、ソヴィエト連邦文化省はサクソフォンのための高等クラス設立を決定しました。そのクラスはモスクワのグネーシン音楽学校に開かれ、これが、ロシアで初めてサクソフォンの専門家を養成するための場となりました。この決定が下されるに至った支配的な理由の一つとして、ロシアの作曲家により書かれた音楽を永続させ、再評価するという目的があったことは言うまでもありません。

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以上。やはり、きちんと日本語に翻訳して読んでみると面白いですなあ。「協奏曲」に関する書簡の内容はもちろん、付加情報としてセルゲイ・コレゾフ Sergey Kolesovの母校である、グネーシン音楽学校のサクソフォン・クラスがいつ設立されたかなんて内容まで(ほとんど知られていないのではないか?)。

ところで、ロンデックスの評伝のなかでA.Petiotについての該当部分を翻訳してブログ上に載せた、数日前の記事なのだが、コメント欄でいろいろ議論がされている(DONAXさん、Thunderさん、コメントありがとうございます)。記事と一緒に、そちらも併せて参照していただきたい。

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