2007/08/05

吹奏楽コンクールを聴きながら

今日は、後輩たちが出場している吹奏楽コンクール茨城県大会を聴きに行ってきた。途中で出てきてしまったが、結果はどうだったんだろう。各団体の評をザクザクと書いてもいいのだが(良くないって)、ちょっと視点を変えて、特に、課題曲・自由曲に関して思ったこと。

端的に言ってしまえば、変な作品の連続だなあ…と。課題曲は、うーん「マーチの年ならばこんなもんかなあ(--;」と感じた曲すら、一つしかなかった…。自由曲は「起承転結のドラマがあって」+「打楽がド派手で」+「最後がフォルテシモの伸ばしで終わる」という3つの条件を満たすワンパターンさに、途中から飽き飽き。どこがどう曲に結びついているのかわからない、タイトルの意味不明さも然り。

ところどころで聴けたアルフレッド・リード博士の作品は、混沌としたプログラムなかの、まさにオアシスのようだった。この上なく単純で、明晰、しかし深い音楽。中橋愛生氏の作品は、複雑な構造の中に才気が見られて、興味深い作品だと思った…一般的なバンドでは取り上げづらいほどの難易度の高さではあったが。

この吹奏楽分野における現代音楽(ここでは"同時代の作品"という意味で使う)は、吹奏楽連盟のコンクールのおかげで大変な隆盛を誇っている。演奏者・作曲者・聴衆の間で、強力な循環が生まれ、毎年の次々の新作の発表、初演・再演が繰り返されているのだ。クラシックにおける現代作品が商業的に成功しているのって、たとえばクラシックのほかの分野…オーケストラや室内楽では考えられないことではないか。

こういった正の側面だけを見ると、確かにある意味すべてが上手くいっているようにも見えるが、一方で功罪もあるということだ。音楽的に優れた内容の作品が無視されて、演奏効果が高くて内容の無い作品ばかりがプログラムに名を連ねるという状況…。コンクールという場で勝つためには、仕方のないことのなのか?

ここまで書いたことは、すでにコンクールに対する批判の一つとして一般的なものとなりつつある(たぶん)。

…自由曲を、選択性にしたらどうだろう。研究家・評論家が選ぶ音楽的に優れた作品を20~30作品収集して、そこから選ばせるというのは?その時点ですでに自由曲ではないが、実現したら面白そうだ。課題曲は、残念ながら「新作を課題曲とする」という現状を維持してもらうしかない。それがないと、吹奏楽連盟は運営していけないだろうから。ただ、もうちょっとマシな曲が提出されてきていると思うのだが…一体全体どんな選び方をしているんだろう。

と、めずらしく批判一直線で書いてみた。なんにせよ、今のまま中身が空っぽの音楽ばかりをやっていれば、演奏者たちにとってはつまらないし、聴くほうもつまらないし、クラシック界から見たとき吹奏楽というジャンルの地位が上がることはない…のだろう。

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