2022/04/06

フェルドの協奏曲と四重奏曲について(過去の曲目解説+α)

分離前のチェコスロバキアの首都、プラハに生まれたイィンドジフ・フェルド Jindřich Feld(1925 – 2007)は、子供の頃から音楽環境に恵まれた家庭で育った。イィンドジフの父親はプロフェッショナルのヴァイオリニスト・指揮者、母親もヴァイオリニストであり、フェルド一家はあのクーベリック一家(父が著名なヴァイオリニスト、息子のラファエルは国際的な指揮者)とも親交があったほど。幼いイィンドジフはその充実した環境の中でヴァイオリン、ヴィオラ、作曲を早くから学び、芸術に対する知識やセンスを身に付けていった。

初め、プラハ音楽院とプラハ芸術アカデミーで作曲を学び、1952年に卒業。その後プラハの名門、カレル大学に入学したフェルドは、音楽学、歴史学、哲学の3つの専攻において博士号を獲得、さらに5つの言語を身につけ自在に操るほどの、驚くべき多才さを発揮した。

カレル大学を卒業した後に、フェルドはようやく作曲家としての本格的な活動を開始。試行錯誤の末、母国の伝統的な音楽にヒントを得ながら、それらを西洋音楽と融合させ、オリジナリティを確立していった。数々の管弦楽、協奏曲、室内楽はどれも高い評価を得、その功績が認められて、1972年、プラハ大学において作曲科の教授に就任する。名教授として多くの優れた門下生を輩出したほか、オーストラリアやアメリカ他の音楽大学の客員教授をも務めた。1991年には、短期間ながら日本にも招聘されている。

サクソフォンの世界とフェルドのつながりは、かなりに強いもので、それはアメリカのサクソフォン奏者、ユージン・ルソーとのコラボレーションをきっかけとして始まった。1975年、ユージン・ルソーの妻であるノルマ・ルソーが、チェコ語の研究生としてプラハの大学に入学したのだ。その時ノルマは、ユージンから、「面白い音楽…特に管楽器に関するものを見つけたら、録音を送ってくれないか」との依頼を受けていた。その中で、チェコの作曲家の作品集をいくつか送ることになったのだが、そこに含まれていたのがフェルドの室内楽作品集だったのだ。その録音を聴いたルソーはフェルドの音楽に大変興味を持ち、サクソフォン作品を委嘱することになったのだと懐述している。

委嘱を受けたフェルド自身は、それまでサクソフォンのための作品を手がけたことがなく、当初はあまり乗り気でなかった。しかし、ルソーが様々なサクソフォン音楽の録音をフェルドに送ったところ、フェルドはサクソフォンの魅力に気付き、最終的に委嘱を引き受けることとなった。フェルドがルソーのために書いた、サクソフォンのための処女作は1980年に完成した「サクソフォン協奏曲」。1981年から1984年の間には、インディアナ州立大学にゲスト講師として招聘されているが、このルソーとの親交によるものではないだろうか(裏取り未)。

同じく1980年、フェルドは「サクソフォン四重奏曲」をダニエル・デファイエ四重奏団に献呈している。デファイエは、委嘱にあたり、「サクソフォン四重奏には短くて軽い室内楽作品が多いので、それに対抗して長大なサクソフォーン四重奏曲を望む」といった旨をフェルドに伝えている。実際、この時期に唯一存在していた同規模の四重奏作品は、1932年のグラズノフ「サクソフォン四重奏曲作品109」のみであろう。

デファイエ四重奏団は、1983年5月4日に世界初演を行った。その後、1985年6月25日、メリーランド州カレッジパークで開催された第8回世界サクソフォンコングレスにおいて、アメリカ初演を果たしている。

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