2013/12/15

ピッテル氏からマルセル・ミュール氏へのインタビュー(後半メモ書き)

前回の記事の続き。

前回の記事同様、自分用の走り書き。誤字脱字はそのまま。内容のチェックもしていない。間違っている可能性もあるので、情報を引っぱり出す時はかならず元の動画を参照いただきたい。

通訳をしている女性はSandra Rhee(ミュールのかつての生徒とのこと)、ビデオを撮っているのはミュールの息子でフルート吹きのジャック・ミュールだそうだ。



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私達はスター歌手を知っているが、他の歌手も素晴らしい歌を歌う。なぜか?なぜなら、彼らは表現に対して確固たる規律を持っているからだ。でも、彼らはそのことに気づいていない。本能的にそうしているんだろう。全ての歌手は、本能のまま歌っている。ジャックには先生がついていたが、本人が素晴らしい音を持っていることを知らなかった。それと同じことだ。彼は自然体だったが、他の人にとってはそれは良いことだったが、本人にとっては良くないことだった。自然に才能を持つ人は幸せだが、それは他者にとって、なのかもしれない。私は、それを獲得しようとした。努力して努力して、そして一部を手に入れることができた時、私のように吹きたいという生徒を持つことができた。私はそのことを生徒に対して説明しなければならなかった。つまり、私はなぜ生徒がこの演奏に魅力を感じるかを、説明し、分析しなければならなかった。なぜ私がそれを好きなのか?なぜならば、それをしなければ私はできなかったから。しかし、なぜ彼ら自身がそれを好きなのかを知らなければならない。同様に、他の多くの人がなぜそれを好きなのかを知らなければならない。
これが、パリでの流行の始まりだった。いずれ、他の地でも。私は、自分のたくさんの生徒に何年にもわたってそのことを教えた。私は、徹底的に音色について勉強した。私が美しく好みの声楽の声を聴いた時、一般的に、私ではなく他の人にとってもそれは好まれるものであった。皆がその声を楽しむのだ。2つの声があったとすれば、こちらのほうが好みである、というものが存在する。しかしそれは、私だけではなく他の人も同様に、その声を楽しむのだ。声楽には、完全性を持つ瞬間がある。弦楽器のように。どちらも美しい。ヴァイオリンや、チェロには美しい音というものがある。私は常に、Pierre Fournierを規範とした。何度も一緒に仕事をしたことを覚えているよ。私達はお互いのことをよく知っていた。彼は、ひとつの例のようなものだった。私は、彼のように上手くやろうとした。私はその後、分析した。こういうわけで、私の父が私に教えてくれたことと、その後に起こったことは全く違うことだったんだ。しかし、根本にあるものは同じだ。根本と、音楽の贈り物、父は音楽を深く愛していた。私は上手く演奏できた。父は音楽を感じていた。どちらも、大きな学校で学んだわけではないのだが。父は本能的にそういったものを持っていた。だから、父が私の先生なんだ。その後は、私が聴いたものすべてが私の先生だった。
そしてヴァイオリンについても、父は素晴らしいヴァイオリンの先生だった。特に、素晴らしいソノリテを持っていた、という点において。父はすばらしい芸術家だった。素晴らしいソノリテと、解釈を、いくつかの重要な視野とともに持っていた。それは事実であり、他の音楽家…素晴らしいソリストを聴いた時に、私が楽しむことであった。素晴らしいソノリテに、耳がその音に没入し、雰囲気に飲み込まれる。驚異的なことだ。そういったことにインスピレーションを受けた。
私はそれをコピーした。そういった意味で私は日本人が好きだったな。日本人は全てをコピーするからね。ものをコピーするのは良いことだ。日本人はコピーして、それを上手くやるからね。そう、全てを。それは本当だ。かれらはたやすく全てをコピーする。彼らはとても良い耳を持っているんだ。まったく同じ複製を作ってしまう。また彼らはそういったことが好きなんだ。凄いことだ。
私は偉大な音楽家をきいたときそういった精神状態にあって、それが私を成功へと導いた。他の皆も成功した。
私が言えるのは、先生というものは、私が20歳の時パリに住んでおり、その環境の端々がすべて先生だった。私が聴いたものすべてが先生だ。実際、私の父はこう教えてくれた。彼は私にパリに行って音楽環境に触れてほしいと考えていたが、こう言った「お前はパリに行かなければならない。そこでいろんな芸術家を聴くことが、真の教育だ」と。それは本当だった。もちろん、私は素晴らしいヴァイオリンの先生についていたが、私は自分が勉強したいほどヴァイオリンを学べなかった。なぜなら時間がなかったから。
私は生涯にたくさんのヴァイオリンやチェロを聴いたが「選択」をした。どれも美しいソノリテをもっていが…。それは、私に確信を与えた。声楽、弦楽器、器楽家…。管楽器では、何人かは素晴らしいソノリテを持っていた。私はそれらに影響を受けた。全てが私の先生だ。私が聴くことができたもの、全てだ。
私が選択を行ったあと、私は生徒を持ちたくなった。私は彼らの前でたくさん演奏し、私自身が演奏しているのを観察しなければならなかった。生徒に何かを指導する時は、私自身がそれをできなければならない。
私達は音楽の一般的なことについて話しているが、良い耳を持たなければならない。耳はどんな間違いも犯さない。耳が間違いを犯さないというのは、純粋に幸福なことだ。私のことを考えても、それほど多くの間違いをしたとは考えていない。多くの機会があったから。しかし、そういったチャンスがなければ、事前に悪くなることはないが、分析することも難しいだろうし、何が起こっているかを分析することもできないだろう。「なんと素晴らしい歌手、なんと素晴らしい歌声だろう、しかしなぜ?」
音楽院では、1クラスあたり5~6人の生徒がいた。全員が出席して、ひとりが良い演奏をすると、全員に良いソノリテが生まれる。だから、誰かが良い演奏をしているのを聴けば、他の皆はそれを聴いている。その時私は、聴いている生徒に向かって、それについて何を思うかを尋ねた。彼らは「素晴らしいと思いました」と言った。私も同感だった。しかし、なぜ敢えて私は聴いている生徒にそのことを尋ねたのか?「なぜ良いと思ったか説明して下さい」と尋ねるのだ。なぜ良いかを知らなければならない。それは分析の力であり、それは私達が間違っていないことと示してくれるのだ。

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