2011/08/07

ロンデックスのロシアツアー

James C. Umble著「Jean-Marie Londeix: Master of the Modern Saxophone」から、ロンデックス氏が1970年に行ったロシアツアーに関する部分を抜き出して訳してみた。この本は、著者の書き言葉とロンデックス氏の日記とが交互に書面に登場する形態を取っており、引用フォント部分はロンデックス氏の日記である。

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ロンデックスは1970年にロシアツアーを行ったが、きっかけは1968年にさかのぼる。当時ロンデックスはディジョン音楽院の教授だったが、ちょうどその頃ディジョンInternational Society of Music Educators (ISME)が開かれたのである。

1968年7月
8日間に及ぶISME国際会議が昨日始まった。44ヶ国から3000人以上の参加者がこの小さな街に集まる大規模な催しで、問題も多いが、Ameller(ロンデックス氏の友人の作曲家)は根気よく問題を解決した。今日は、Jean-Jacques Painchaudの伴奏で2度演奏した。午前中には、Salle d'Etatsで開かれた開会式でヒンデミット「ソナタ」を演奏し、夜には劇場でミヨー「スカラムーシュ」とクレストン「ソナタ」を演奏した。
私はロシアから来ていたドミトリー・カバレフスキーという人物に、なぜロシアではサクソフォンがそれほど人気を得ていないのかを尋ねる機会があった。
すると彼は、「誰もサクソフォンのために曲を書いていないからだ」と答えたのだ!
私はすかさず「それは間違っているよ、明日それを証明してあげよう」と返し、今日の午後、"サクソフォン音楽の125年"を彼に見せたのだ。
カバレフスキーは実に驚いた様子でページをめくり、そしてこう言った。「ロシアに来て、ぜひ演奏してくれ」

カバレフスキーがオーガナイズを行い、ロンデックスは1970年にロシアツアーを行った。ロンデックスはキリル・コンドラシン指揮モスクワ・フィルハーモニー管弦楽団とイベール「コンチェルティーノ」とドビュッシー「ラプソディ」の演奏を行い、その他リサイタルを2回開いた。いくつかの演奏はラジオ・テレビで放送された。また、彼は公開レクチャーを行い、ロシアの音楽院にサクソフォンの教育者を採用することの重要性や、サクソフォンの未来のための新しいレパートリーの必要性を訴えた。

1970年3月14日
キリル・コンドラシン指揮の素晴らしい管弦楽団と、チャイコフスキーホールでの最初のコンサート。素晴らしく成功した。アンコールは2曲。コンサートの模様は、テレビで録画放映された。

1970年3月15日
二度目のコンサート。昨日と同じくらい、ホールの観客席はいっぱいで、またまた成功。その後グネーシン音楽学校に招かれて暖かい歓迎を受ける。マルガリータ・シャポシュニコワに会った。クラリネット奏者だが、サクソフォンも吹くそうだ。グラズノフの「協奏曲」を吹いた。
私たちは、サクソフォンの専門家の必要性…言い換えれば、サクソフォン教育についての厳格な指導方針の必要性、について話した。また、オリジナル作品の作曲の必要性についても話し合った。

1970年3月17日
満員のホールで、ソロ・リサイタル。大変な成功…なんとアンコールを6曲も吹かなければならなかった!最後は、楽器なしでステージに出てきて、もう終わりだよと示さなければならなかったほど。
土曜のコンサートをオーガナイズしてくれたカバレフスキーは非常に興奮し、私のために作品を書いてくれると言ってくれた。

ロシアツアーに同行したロンデックスの妻、ジャニーヌは、次のように回想している:

夫はモスクワでの大成功をとても嬉しく思っていました。かの有名な指揮者、キリル・コンドラシンと演奏し、観客も大興奮だったのですから。コンサートホールは帝政ロシア時代のものですが、建築物として非常に良くメンテナンスされていました。フレスコ画、ガラスのシャンデリア、美しい部屋…。人々の服装は貧しいものでしたが、彼らの興奮と熱狂の渦は凄いものでした。この暖かい反応に触れ、夫の演奏で、きっと彼らがサクソフォンを好きになってくれたのだと確信しました。夫ジャン=マリー・ロンデックスと、モスクワの教授、レヴ・ミハイロフとの間で文通が始まったのも、この時からです。ミハイロフは、1974年にボルドーで開かれた世界サクソフォン・コングレスに参加してくれました。

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続きはまた今度。ちなみに、ミハイロフは1974年のコングレスでグラズノフの「協奏曲」とデニゾフの「ソナタ」を吹いている。

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