2007/10/24

宮島基栄著「私のえらんだビッグ5」

宮島基栄氏が、サクソフォーン演奏家5人を取り上げて綴った記事のタイトルである。ずっと昔のバンドジャーナルの記事「今日の名演奏家」という特集の一節であるが、ドルチェ楽器のKさんに頂戴したハードコピーが手元にあるのだ。

この記事で取り上げられている演奏家は、マルセル・ミュール、ジーグルト・ラッシャー、ヴィンセント・アバト、ダニエル・デファイエ、ジャン=マリー・ロンデックス(敬称略)。宮島氏の文章を読んだのは初めてだったが、好き放題書き綴る様は、記事というよりはエッセイのよう。それぞれの人物について書かれた文章中で、特に印象に残ったところを抜粋して載せておきたいと思う。

ミュール:
…数年前、フランスのボルドーで世界サクソフォーン・コングレスが行われた際、姿を見せていたが演奏はしなかったそうだ。聞くところによれば、引退後は一切音楽から離れ、田舎でバラ作りを楽しんでいるとのこと、さもありなんである。これは私の想像であるが、もうやりたいことは全部やってしまったのだろう。何も悔いはない、あとは好きなバラでも作って静かに暮らしたい。たぶんそんな心境だと思う。

ラッシャー:
…この当時、私はF#以上の音は出ないと思っていたし運指も知らなかった。イベールの小協奏曲にも楽譜に8va.と書いて点線でオクターヴ上を示してある。ミュールはオクターヴ下で吹いていた。イベールはラッシャーにこの曲を捧げており、たぶん初演のときはラッシャーは楽譜どおり演奏したに違いない。ラッシャーの音は無菌室で培養されたような音で、あくまでも透明で雑音が全くない。ミュールに比べると、温かみに欠けるのが残念であるが、その奏法は情熱的で輝きに満ちている。このレコードを聴いてから私は、F#以上のハイトーンをいかに出すか、が日課となった。

アバト:
アバトのレコードを聞いたときから私の目標は決まった。アバトのように吹きたい、アバトのようなプレイヤーになりたい。今でもその気持ちに変わりはない。ミュールは私にとって神であり、ただひざまずき、あやかりたいと思うのみである。アバトの音には親しみがあり、ここまでおいで、二人でデュエットでもやろうよ、と私を呼んでいるかのように聞こえる。

デファイエ:
…とその音を直接聞いて、腰が抜けて立てなくなるほどのショックを受けたのである。カザルスの音を聞いたときもそうだった。何しろレコードと生音はぜんぜん違うのである。レコードでは想像もできないスバラシイ音であった。はじめから終わりまでシビレ通しだった。
…キャトルロゾーは、はるか谷底でごそごそと吹いている感じ。よほど注意していないと、こまかいパッセージは聞こえてこない。デファイエ・クヮルテットのサウンドはパノラマのように眼前に楽器が浮かび上がる、けっして、音の大小の問題ではない。なぜ?やはりモノマネだからか。イミテーションではスケールが小さくなる。日本の演奏者もじぶんにしか、自分たちだけにしかできない演奏を考える時期にきているのではないかとも思った。


ロンデックス:
…デファイエの音は陰性であり音楽の中へ中へとのめり込ませる。いっぽう、ロンデックスは陽性で開放的、会場がぱっと明るくなる音である。日本に置いてもデファイエについて公のコンサートを持った二人目の人である。生もレコードも音で音でのびのびと歌い、おおらかな演奏である。
…ロンデックスのコンサートは大変楽しかったが、完全性を求めるなら、不満がないでもない。第一に、リズムが甘く、音楽の表現が単調に流れやすく、洗練性に欠けるうらみがある。やはりフランスの二番手というところか。


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うーん、面白い。ちなみに、時期的には1980前後の話だと思われる。ところで、デファイエのところに記してある、次の一文だが、現在の日本のサクソフォーン界も、この頃の「イミテーション」を心のどこかで引きずっているきらいはあるのではないかなとも思った。

> なぜ?やはりモノマネだからか。イミテーションではスケールが小さくなる。日本の演奏者もじぶんにしか、自分たちだけにしかできない演奏を考える時期にきているのではないかとも思った。

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