某所で湯浅氏の「私ではなく、風が…」の楽譜を見つけて、ふーん、という感じで眺めている(吹きませんよ)。
実演に接したのはつい最近、7/19のジェローム・ララン氏のリサイタルの時だが、そのとき湯浅氏が作曲経緯について興味深いエピソードをいくつか話された。その中の委嘱エピソード、「サックスの豊潤な音が嫌いで、野田君から委嘱されたときも断ろうと思っていたのだが、野田君にそう話したところ『僕もサックスの音が嫌いです』と言われ、断る理由が無くなってしまった」との話がずいぶんと頭の中に強烈に残っていて、楽譜も見てみたいなー、と思っていたところだったのだ。
マイクを譜面台の近くに二本並べて、片方は増幅、片方はエコーとし、サックスのベルはその間を行ったり来たりしながら独特の響きを作り出していく。サックスの譜面はほとんどが無声音やキーノイズで、意図的に大音量を抑えているような印象を受ける。現代の楽器「サクソフォン」のための曲と言うよりも、なんだかクラリネットのためのような楽譜だ。
面白かったのがヴィブラート。楽譜の一部を載せたが、全曲を通してヴィブラートの指示がここにしかないのだ(写真参照)!フツーのフランス・アカデミズムに則った作品の演奏では考えられませんなあ。
でもよくよく考えてみたら、そういえばヴィブラートをかけるべき音は、指示が無い場合はほとんど奏者の裁量に任されている部分がある。楽器の響きを明確に指定したい作曲者からすれば「ヴィブラート」って邪魔なものなのかもしれないな。ベリオ「セクエンツァIXb」の楽譜を見せてもらった事があるのだが、冒頭にはっきり「sans vibrer」の文字、そして曲中には適宜ヴィブラートの指示が。
響きにこだわりをみせたい作曲家ほどに、サクソフォン=ヴィブラートを伴った音、という固定観念を持っている作曲家達はサクソフォンから離れていく傾向があるということか。たしかに緊張感ある響きを管楽器で作り出したいのだったら、クラリネットなどの方が適任のような気もする…。
サクソフォンの歴史を俯瞰すれば、軍楽隊の中での木管と金管を合わせたような素朴な響き→現代のコンサートホールに適した豊潤で大音量のソロ楽器、ソロとしての響きを生み出そうとする課程でヴィブラートを獲得、という変遷を経てきたと言うことだが、こうして得たサクソフォンならではのアイデンティティが負の方向に働いてしまう状況も、あるにはある、のだろう。サクソフォンのそういうところに惹かれている自分にとっては、なんだか不思議な感じだ。
はじめまして。
返信削除湯浅譲二の「私ではなく風が」は20年くらい前にFMで聴いて、とても印象ある曲です。ここにリンク張らせていただいてよろしいでしょうか?
tuckさま
返信削除初めまして。コメントありがとうございます。リンク、もちろん大歓迎です!
私が「私ではなく風は…」を聴いたのは、3年ほど前の演奏会でした。派手な作品が並ぶ中、凝縮された集中力の高い響きが印象に残っていましす。