2009/09/05

加藤恕彦留学日記

インターネットには何とか接続できるようになった。サポートに電話して、NTTの技術者に来てもらって、やはりPCのネットワークインタフェースカードがダメなのではないかという結論に。このPCのネットワークインタフェースデバイスはオンボードなので、もしかしたらRealtekのチップのハンダがダメになっているのかなあと思い、チップを10回ほどねじ回しで小突いたところ、いちおう動くようになった。まあ、小突いたおかげで直ったかどうかということは良く分からないが、とりあえず良かった。安いNICの一つや二つ、常備しておかないと…。

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上田卓さんから送ってもらった書籍。タイトル通りなのだが、加藤恕彦氏というフルーティストが留学時に書いていた日記を書籍化したものである。加藤恕彦という名前は、あまり現代では知られていないのかもしれないが、夭折の天才フルーティストとして有名なのだそうだ。

その経歴たるや、1937年生まれで慶応義塾大学在学中にフランス政府給費留学生試験に合格して渡仏、その年にパリ・コンセルヴァトワールに入学、2年間の勉学ののちにで同フルート科を首席卒業し、その3か月後にはミュンヘン国際コンクールにて第2位入賞というもの。さらに、モンテカルロ国立歌劇場管弦楽団の首席フルート奏者に就任(日本人が欧州のオーケストラの首席奏者になったのは初)して、その後もリサイタルやオーケストラ演奏で活躍を続けていたという、とてつもないものだ。1964年、妻のマーガレットとともにモンブラン山中にて遭難し消息を絶ったとのことだ。恥ずかしながら、この時代にこれほどまでにヨーロッパで活躍した日本人演奏家がいるのだとは、不勉強で全く知らなかった。フルート界では有名なのだろうか。

この留学日記は、そんな加藤氏が21歳で渡仏したときから、およそ9か月にわたって綴られた日記をほぼ原文のまままとめ上げたものだ。いろいろな読み方があって、たとえば当時の管楽器界の先端をいっていたフランスのその最高学府がどのような様子だったのかを読み取ることができるし、あるいはパリや、加藤氏が留学中に出かけたスイスやイタリアなどの美しい風景を楽しむのもよい。あるいは、敬虔なカトリック信者であった加藤氏の信仰の深さと信仰に対する謙虚な姿勢を読み取るのもよいし(聖母文庫という、キリスト教系の出版社から出版されている。私自身は、クリスチャンでも何でもないが)、はたまたマーガレットと出会ってからの彼女に対する心の動きや彼女に対する行動を見守るのもいい。学生らしい、友人やその他周りの人との付き合いについて、描写がリアルで読んでいて楽しい。

だがとにかくひとつだけ確実に言えることは、そこかしこが金言にあふれた日記だということだ。これは、いっぺん通して読んだ後に、ぜひ時々見返したい。いくつか、非常に印象に残った部分を抜粋する。モーツァルトについて、そして演奏家が同郷、同時代の音楽をやることについて。

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(11月16日:ランスロのクラリネット・クインテットを聴いて)
 
(…中略)これは大変な音楽だった。こんなに温かく、こんなにしっとりして、こんなに平安なモーツァルトをきいたことがない。涙を浮かべてききいる。
 ランスロという人は、大変な「よい人間」だということがはっきりわかる。謙遜に、愛と忠実をもってモーツァルトと宝石の中に沈入している。音楽をやるには、特にモーツァルトをやるには、本当に心の美しく、しかもつき合いにくい人でなくて、本当にしっとりした人間にならなければいけないということを本当に思い知る。私は真のモーツァルトをやるには、まだあまりに邪心が多すぎる。もっと素朴にならなければいけない。(…中略…)モーツァルトの天才は享楽的小市民、片田舎の百姓といったものの様相のかげで常に光と不安を保っている小さな宝石である。それは、いつも表面にのさばり出て、まばゆく人の目を射ることなく、それでいて、全くあたりまえの踊りや流行歌のごときなんの変哲もない。たわいもなくかわいい音楽に、天上的な光をなげかけてやまない不思議な、不思議な一見矛盾するような二つの感状―小市民的喜怒哀楽と形而上学的な平和―が常に溶け合って、不思議なとても人間味がありながら深い深いものをたたえているのは本当に奇跡である。


(4月30日:フルートクラスでのグループレッスンの描写)
 
(…中略)フランス近代―現代といえばとりもなおさず彼らクリューネル先生と、生徒のほとんど全部のフランス人が住んでいる国、生きている時代のものなのである。何の条件もなく、じかに彼らの「持物」である。生徒も理屈なく、ただ譜面から音楽の意味が直接感じとれてしまうし、先生はもちろんであるから、吹いている生徒とその前にたって導いておられる先生の間にはすでに一つの興奮が成り立っていて、ただ聞いていても一つもあぶない個所や不自然が感じられず、ただ感激と興奮に巻き込まれて、まんじりともしない「理屈抜き」の時間である。
 先生が一人の弟子を見終わったとき、ちっとも部屋は暑くなくて、むしろうすら寒いのに、"Il fait chaud!"(J'ai chaudではない)といって窓を開けたとき、全くそれが不自然でなく、みんなの顔も熱そうだった。(…中略…)彼らが、いったん自分の番になって笛をとるとだれも何も考えることなく部屋中を「あつく」してしまうのを見た(後略…)


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と、ここまで抜粋して気づく。まさかこれが、21歳の紡ぎだす言葉とは信じられない。いや、それほどまでの人物だったのだろう。つくづく、惜しい人を亡くしたものだ。

なかなかボリュームがある本だが、知らない方はぜひ読んでみると良いと思う。amazonなどで買えるようだ。加藤恕彦留学日記―若きフルーティストのパリ・音楽・恋

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